台湾のミャンマー街のカフェはチャイハネのようだった | 中和華新街形成の歴史と現在

ミャンマーのミルクティー「ラペイエ」

台北のMRTオレンジ線の終着駅・南勢角には華新街という通りがあり、通称ミャンマー街と呼ばれています。華新街は1960年代からミャンマー華僑が台湾へ移住して形成されたエリア。ここにはミャンマーやタイに雲南、そしてインドやハラール料理などのレストランや雑貨店が並び、台湾にいながら異国文化を感じられるスポットになっています。




ミャンマー街を歩く

MRTオレンジ線の終点、南勢角駅の4番出口を出て興南路を歩くこと約10分。華新街(ミャンマー街)に到着です。

ミャンマー街の毎朝の托鉢風景

華新街という一本の通りに、数々のミャンマー料理や雲南料理の食堂や雑貨店が立ち並んでいます。看板も中国語とビルマ語で表記されていて、一般的な台湾の通りとは少し違います。毎朝10時頃にはお坊さんや尼さんが托鉢をしている風景も見ることができます。

ミャンマー街の托鉢

店頭に様々な具材のカレー料理を並べているお店を見つけました。

レストラン「母親的恩情」のカレー料理

ミャンマーのカレーは一見辛そうに見える色合いですが、食べてみるとスパイスによる味の深みはあるものの、辛くはありませんでした。小皿で辛いソースをつけてもらえるので、好みに応じて好きなように食べられるようです。

印度冰(ファルーダ)というインド発祥のスイーツ。「包哥來」にて

多くの食堂では飲み物の定番メニューとしてミルクティーを売っていました。また酸奶(デインチン / ヨーグルトのような飲み物)や印度冰(ファルーダ)も発見しました。

ミャンマーの朝食の定番「モヒンガー(魚湯麵)」瑞雲小吃店にて

モヒンガー(魚湯麵)はミャンマー街の代名詞といってもいいほど有名な料理だそうです。ミャンマーでは朝食として食べられることが多いよう。

モヒンガーは色んなお店で出しているので、食べ比べるのも楽しいかもしれません。麺一杯の値段は台北市内より安く、だいたい60元くらいから食べられます。

個人的に気に入ったのが、阿微緬甸小吃店 (map)のモヒンガー です。食べる前にレモンを絞ってもらえ、さっぱりとしていて食べやすかったです。

ミャンマー式ミルクティーを出す茶室へ

ミャンマーのミルクティーとお茶菓子を出しているお茶屋さん(ラペイエザイン)も数軒ありました。ミルクティーを出すお店はたくさんありますが、お店によって食べられるお茶菓子は様々です。ミャンマー街は食事だけじゃなくティータイムも楽しめるスポットです。


ミャンマー街で楽しめるお茶菓子を動画で紹介しています。

勃固小吃のミルクティーとお茶菓子

扱っているお茶菓子はお店によって異なり、ナンやパラーターなどインド風のものもあれば、ワッフルのような焼き菓子も。お店によってはサモサや春巻きもお茶と一緒に楽しめます。

勃固小吃のお茶菓子

勃固小吃ではココナッツやバナナなどを使ったもちもちしたおやつが並んでいました。

口福南洋風味の檸檬咖啡

口福南洋風味にはレモンコーヒーという、ブラックコーヒーにレモンを入れていただくドリンクがありました。これもミャンマーでは定番の飲み物のようです。


日發巴拉打專賣店の草莓烤餅と冰奶茶

日發巴拉打專賣店の窯で焼いたナン(印度烤餅)。こちらは苺ジャムをつけたメニューです。ミャンマー本国ではナンにジャムやピーナッツペーストを乗せて食べることはないようなので、これは台湾の朝食店の影響かな?と感じました。


ミャンマー街のナンについてこちらの記事でもっと詳しく紹介しています:

日發巴拉打專賣店

ミャンマー街は昼間が特に賑やかになります。ランチタイムが過ぎるとレストランは休憩に入り、お茶屋さんも17時頃には閉店するところが多いです。夜は営業しているレストランの数が少ないので、訪れるなら16時より前がおすすめです。

勃固小吃の熱奶茶

騎樓に並んだテーブルでは、中年の男性のグループがお茶を飲みながら何時間も談笑している姿があちこちで見られました。

お茶屋さんでおしゃべりに興じる地元民たち

日曜昼に訪れた時も、平日の昼に訪れた時も同じように賑わっていたので、このおじさんたちの談笑はミャンマー街の日常風景のようです。なんとなくウイグルや中央アジアのチャイハネを連想させます。



雑貨屋でおみやげを購入

この写真に写っている下川裕治氏の著書「ディープすぎるユーラシア縦断鉄道旅行」の文中のコラムでは、ミャンマーの華人について少し触れられています。中国、ミャンマーや北部タイの歴史を知りたい方は、これを読むとミャンマー街をより楽しめるかも。

この本をレストランで広げていたら、隣のテーブルで談笑していたおばさんが話しかけて来ました。ミャンマーから台湾に移り住んで来た、ここの住民のようでした。


ミャンマー街形成の歴史

ここからはより詳しくミャンマー街形成の歴史を掘り進んでいきます。

ミャンマーと雲南料理のお店が並ぶ


ミャンマー華僑の台湾への移住

南勢角のミャンマー街に居住しているのは、主にミャンマーに暮らしていた華人です。ミャンマー華人の台湾への移住は、時代や境遇によっていくつかのグループに分かれます。

ミャンマー華人の台湾への大規模な移住が起こったのが1949年以降のこと。第二次世界大戦の際に中華民国政府によってミャンマーに送られた人々が、国民党政府とともに台湾(中華民国)に"帰国"します。最も初期に移住してきたグループは主に台北士林の雨聲新村に住むことになりました。

次の移住の波は国共内戦の1950年代。国民党軍は雲南省から北部タイやミャンマーへの後退を余儀なくされます。異郷の地に残されたこの軍人たちは「泰緬孤軍」と呼ばれています。

孤軍の第一陣は1954年に台湾に送られました。この軍人とその家族のグループが住む場所として桃園の土地が用意され、龍岡新村忠貞新村という眷村が形成されました。61年にも同様に泰緬孤軍の台湾への帰国があり、こちらのグループは南投の清境農場に住むことになりました。


そして中和の華新街にミャンマー華僑が移住して来るのが1960年代以降のことです。

参考文献
▶︎游惠晴(2009)中和華新街緬華族裔經濟社區形成與發展之研究(PDF)


彼らがミャンマーを離れることになった理由

ミャンマー華僑向けの中国語クラスも開講している

先述の国民党軍の軍人グループと現在ミャンマー街に暮らす華人とは、台湾へ移住してきた理由が少し異なります。個々人によって移住の理由は異なりますが、基本的にはミャンマー国内で起こった政治的な要因、経済的要因、そして教育的要因に分けることができます。

理由1:政治的要因

ミャンマーでは1948年にイギリスから独立し「外僑登記條例」や「移民條例」という制度が開始され、元々現地の出身でない華人たちは身分証を取得する必要が生まれました。

ミャンマーのネー・ウィン(Ne Win)将軍は社会主義者で、1963年に国内の私有の企業や商店を国有化(收舖子)したばかりか、64年には新しい紙幣を発行し、既存の紙幣を廃止(大票變)してしまいました。元々ミャンマーで商売をする者の多かった華人です。彼らはこのような排華政策により財産を失い、自殺者もかなりの数に登ったそうです。

さらに中国の文化大革命の影響もあり、ミャンマー国内では中国の共産主義に対する恐れから1967年に排華事件も起こりました。このようなミャンマー国内での待遇も、現地の華人を他国へ押し出す要因となったようです。


参考資料:
▶︎【投書】你不知道的台灣美麗角落:中和緬甸街的故事

理由2:教育的要因

多民族国家のミャンマーをまとめるため、当時はビルマ語での教育に力を入れられていたようです。1965年にはミャンマーで中華系の学校の運営が公式にできなくなりました。そればかりか、中国語で書かれた書籍の発行も禁じられました。そこで多くの華人たちは中国語での教育や文化の継承を目的に、台湾への移住を検討し始めました。

他にも国籍法の関係で中華系の人々は職業や学業において差別されていました。1982年施行の国籍法では、ミャンマーが独立した1948年に施行された国籍法の時点で国籍を申請していた中華系の人々は「準国民」扱いとなり、公務員になることや、大学で理工系や医学系に進むことができませんでした。

このような差別を受け、ミャンマーに暮らす華人は台湾だけでなく香港マカオ、北米やオーストラリアへ移っていきました。なぜこの時に台湾へ移住するミャンマー華僑が多かったかというと、台湾側もこの時期は華僑学生の受け入れに積極的だったためのようです。

60年代〜80年代だけでなく、現在でも華人系の家庭では高等教育を中国語環境で受けるために台湾に留学するミャンマー華僑が存在します。



参考資料:

理由3:経済的要因

1970~80年代に入ると台湾の経済は成長期を迎えます。反対にミャンマーの経済は伸び悩み、仕事を求めて台湾に先に渡っていた親戚を頼りに移住をする華人が増加しました。

日本の景気が良かった頃には、台湾のミャンマー街からさらに日本へ出稼ぎに行っていたミャンマー華僑も少なくなかったようです。


参考ページ
▶︎華人在緬甸出現的歷史

参考文献
▶︎游惠晴(2009)中和華新街緬華族裔經濟社區形成與發展之研究(PDF)


雲南系ミャンマー華人である楊萬利さんを中心に活動されているミャンマー街のポッドキャスト「鳴個喇叭!緬甸街」でもミャンマー街に住んでいるのはどんな人か解説されています。



60〜80年代のミャンマー街の発展

サモサなどを売る包哥來

ミャンマー街に最初にできた食堂は、1963年開業の『李大媽小吃』という店で、現在ではこの通りに40数軒のレストランがあるそうです。今ではもうこの『李大媽小吃』は閉業してしまいましたが、ミャンマー街では今でも新しいお店ができたりと、移り変わりがあります。

当初ミャンマー華僑がこの中和エリアを選んだのは、家賃が安かったことと、近くに工場など働ける場所が多かったためだと言われています。

80年代に入ると、興南路に德州儀器という外資系の会社ができ、そこで働くミャンマー華僑も多かったようです。特にミャンマーではヤンゴン周辺に居住していた福建や広東の華人は、世代によっては英語教育を受けていたこともあり、台湾に来てからは英語力を生かして外資系企業で働く人も多かったそうです。

こうして80年代には現在のようなミャンマー華僑が集まるコミュニティーの形になっていきました。


参考文献
▶︎宮相芳(2012) 新北市中和區華新街「小緬甸」的飲食文化研究 (PDF)


ミャンマー街に暮らす華人の人口構成

ミャンマー華僑の出身地


ミャンマー本国に居住する華僑を出身地別に見ると、「福建」「広東」「雲南」の3つのグループに分けることができます。

福建や広東出身者は古くは海ルートでミャンマーに渡った華僑で、主にヤンゴンなどミャンマーの南部に居住していることが多いです。

雲南出身者は古くは元や明の時代など、相当早い時期から陸路でミャンマーの北部に移住しています。東北部のシャン州は中国の雲南省に接しており、華人だけでなく、雲南省の少数民族も居住しています。傣族(雲南省の西雙版納に住むタイ族)はシャン州ではシャン族(タイ・ヤイ族)と呼ばれているほど、この地域の人々の交流関係は深いのです。

中国の回民(華人のイスラム教徒)も、中には雲南からミャンマーやタイ北部に移動をくりかえすグループがいました。

その3つのグループがミャンマー街の住人にも反映されています。


ミャンマー街を歩いていると、ミャンマー料理、雲南料理、タイ料理など、様々な地域の食べ物を出す食堂の看板が目に入ってきます。

福建広東、雲南、雲南ムスリムそれぞれのグループが営業する食堂にも、それぞれの特徴があり、一定のパターンが見えてきます。


分類してみると、

⑴ミャンマーのカレーなどを出す店
⑵雲南系の米線などを出す店
⑶ムスリムでハラールの料理を出すお店

という感じでしょうか。

出身地別の料理の違い

⑴定番ミャンマー料理を出す福建広東客家系オーナーのお店

諾貝爾小吃のお茶の葉サラダ


ミャンマーのカレーやモヒンガーなど、ミャンマーの定番料理を出すお店のオーナーは、福建・広東系のミャンマー華僑が多いです。中には広東らしく点心を出す茶楼や、雑貨店店主などもいました。また、話を聞くと客家の一族であるというオーナーさんにも出会いました。

華新街で食べられる定番ミャンマー料理についてはこちらの記事:

⑵雲南・シャン料理を出す雲南系オーナーのお店

雲南の米の加工品「粑粑」などを売る屋台

雲南系の料理を出すお店のオーナーは当然雲南省にルーツを持つ方が多く、雲南省の少数民族(傣族や白族)などの料理を出すお店もあります。

ミャンマー東北部のシャン州で食べられるシャン料理と雲南料理には共通点が多く、シャン・カウスエーなどは華新街でも定番です。

雲南の麺料理屋 「雲南口味」

雲南(シャン)料理はスパイスやオイルたっぷりな定番ミャンマー料理とは異なり、日本人にも馴染みやすい味付けだと思います。定番は黄色いトウフの碗豆粉や稀豆粉(トーフヌエ)、米線など。

ハラール料理を出す雲南ムスリムオーナーのお店

瑞麗清真小吃のナンとミルクティー

雲南ムスリムの店主が、ミルクティーやナンなどを出すティーショップを経営しています。お茶やお菓子だけでなく、カレーなど食事メニューもあるお店もあります。



彼らのバックグラウンドを尋ねてみる

諾貝爾小吃店の酸辣豬肉涼拌飯。個人的にミャンマー街の美味しいもの暫定一位です。

2018年5月から毎週のようにミャンマー街に通っている筆者ですが、特によくお世話になっている諾貝爾小吃店 (map) の店長一家は変わった経歴の持ち主です。

彼らは2018年にミャンマー街に戻ってきて諾貝爾小吃店を始めたそうですが、それ以前は10年間日本で飲食店を経営していました。そのため現在小学校低学年の娘さんは日本語が母語と言ってもいいくらい流暢で、家族間の会話は日本語なんだそうです。

何度か通って話を聞くと、店長さんの一族は広東省出身で、自身はミャンマー生まれの二世。店長の奥さん一族は福建省出身で、ミャンマー生まれの三世(逆だったかも)。そしてご夫婦お二人とも客家人。最初にミャンマー街に移ったのは1980〜90年代のことだそうです。

諾貝爾小吃の羊肉カレー

ミャンマー生まれの華人で日本での居住も長いため、お二人とも語学が堪能です。教育背景も伺ってみると、奥さんはミャンマーで英語による教育を受けたので、英語の読み書きもできるのだそうです。


ミャンマー街にあるお店はどれも古いお店かと思っていましたが、どうやらこの諾貝爾小吃のように最近開業したお店もあるようです。同時に故郷であるミャンマーに帰る人たちもいるのだとか。「ミャンマーには家族も親戚もいるからね」とおっしゃっていましたが、今後このミャンマー街の様相がどう変化して行くのか興味深いところです。


ミャンマー街の水かけ祭り「ダジャン」


ミャンマー街は食文化だけが特色ではありません。年中行事もミャンマーのものを再現しており、住民たちのアイデンティティー形成にも影響しているように感じます。

タイや西雙版納のお祭りという印象が強い水かけ祭り(ダジャン または ティンジャン / သင်္ကြန် / Thingyan / 潑水節)ですが、毎年4月に台湾ではミャンマー街や桃園の中壢などの地域で水かけ祭りが行われます。

この動画は2019年4月に撮影したもの。現地の人だけでなく、このお祭り目当てに台湾人や外国人がミャンマー街を訪れます。

政治家やメディアも来訪し、ミャンマー伝統の音楽やダンスの演奏などの文化活動も行われ、一年で最も盛り上がります。

※水かけ祭りのビルマ語及び英語表記(+読み方)について、しモヒンガーさん(@nangatrp_MM)にアドバイスをいただきました。ありがとうございます!



ミャンマー街で行われるミャンマーのお祭りに関してはこちらの記事:

華新街では4月の水かけ祭りの他に、10月頃には点火祭り(點燈節)という行事があります。上の記事では台湾のミャンマー街で行われるミャンマーのお祭りを紹介しています。


ミャンマー街を舞台にした映画『華新街記事』


 

ミャンマー華僑の趙德胤監督による、華新街を舞台にしたドキュメンタリー風の短編映画『華新街記事』。今の華新街とは少し違う、アングラな雰囲気があります。




台湾の知られざる歴史を感じることのできるミャンマー街をぜひ訪れてみてください!



ミャンマー街関連の記事:

続きは「#今日のミャンマー街」で

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続きは『#今日のミャンマー街』で


参考文献


 ディープすぎるユーラシア縦断鉄道旅行
下川裕治・著

シンガポールからタイ、ミャンマー、中国、モンゴル、ロシア、最北端のフィンランドまでを鉄道で縦断する2016年出版の旅行記。鉄道旅行の描写がメインだが、近代化前の茶葉交易についても触れられている。本文中のコラムで、ミャンマーに暮らす華人についても少し解説がある。

下川氏の旅行記は、昔ながらのバックパッカー的な旅のスタイルが特徴だが、現地の歴史や政治についての造詣が深く、その土地についての背景知識が得られるので愛読している。



中国のイスラーム思想と文化 (アジア遊学)

この特集のうちの一編、木村自氏の『虐殺を逃れ、ミャンマーに生きるムスリムたち−「班弄人の歴史と経験」』では、19世紀に雲南省での杜文秀政権崩壊後にミャンマーへ逃れた中国のムスリムの歴史や、彼らの自己認識について論考している。

ミャンマー街にもハラール料理の店があり、ルーツを辿ると雲南ムスリムにたどり着きそうだ。


桃園中壢にある雲南ムスリムなどが暮らす忠貞市場&龍岡清真寺についての記事もよろしければご覧ください
▶︎ 中壢忠貞市場と龍岡モスク:台湾に渡った雲南のムスリムたち






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(2019年7月7日、2020年5月16日加筆)

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