![]() |
台湾には国共内戦で雲南からミャンマー・タイ北部へ逃れた孤軍の子孫が暮らす街が数ヶ所にあります。中部南投県の清境農場は高原の観光地として有名ですが、元々は雲南文化を継承する孤軍の人々が拓いた村でした。
泰緬孤軍の子孫が暮らす台湾の町
1949年に中国で起こった国共内戦のさなか、雲南からミャンマーへ逃れた一部の国民党軍。異域でゲリラ戦を続けた部隊の一部は1953〜54年に台湾北部の桃園・龍岡に撤退。1961年にはさらに台湾南部の高雄屏東境界の里港と、中部の南投・清境に撤退しました。
ミャンマーに残った一部の部隊はその後タイ北部に集落を作り、タイ国民として暮らしています。
当ブログでも過去に龍岡や里港を訪れた際の話を書きましたが、今回は「台湾中部にある雲南とタイ北部をつなぐ旅・前編」として、南投の清境農場を訪れた時のお話です。
台湾中部にある雲南とタイ北部をつなぐ旅・後編→台湾とタイ北部を繋ぐ天空の茶畑・福寿山農場
今回の舞台は台湾を南北に走る中央山脈にある清境農場。標高2000mを超える山の中に泰緬孤軍の子孫らが暮らし、今では高原の観光地として有名になっています。
清境農場へは、台中市内から山へ入り埔里や霧社事件の仁愛鄉を越えて台14線(14甲線)をさらに登って行きます。
今回は茶の歴史を探訪する須賀努さん(@chatabi2010)の取材に便乗させていただき、台中市政府のCさんの案内のもと、車で現地へ向かいました。
台14線沿いの雲南料理店 |
台湾のスイスとも呼ばれる清境農場には西洋風建築のホテルも並ぶ |
車は標高をどんどん上げて行く |
標高2044m、清境農場の博望新村へ
清境農場の眺望 |
1961年の第二次撤退でミャンマーから台湾へ渡った泰緬孤軍の部隊は、南部の里港と南投の清境農場に落ち着き、土地を開拓し農業に従事しました。
清境エリアには「博望」「壽亭」「定遠」「榮光」「忠孝」「仁愛」という名の眷村(軍人村)がそれぞれ作られました。雲南出身者が多い孤軍の集落のため、現在は雲南文化を推し出した高原の観光地となっています。
清境社區發展協會 |
雲南のお祭り、火把節の紹介 |
毎年10月には清境農場でも火把節のお祭りが開催されます。事前の調べではこの建物に孤軍の歴史や清境農場に関する写真の展示があるはずでしたが、残念ながら訪問時に建物は開いていませんでした。
「從異域到新故鄉 since1949」(孤軍の歴史を記した書籍) |
清境農場發展協會が刊行した「從異域到新故鄉 50週年專輯」*によると、1961年の第二次撤退でミャンマーから台湾へ渡った孤軍は4406名で、そのうち志願退役者は1133名。退役軍人らは各地の農場に配置されたのですが、その一部は前回の記事で紹介した高雄・屏東境界の里港に暮らし、南投の清境農場(旧称:見晴農場)には206名が送られたそうです。
(*上の画像はこの書籍の表紙で、電子版が發展協會のサイトで一部無料公開されています)
清境農場に数ある眷村のうち、標高が比較的高いところに拓かれた博望新村の当初の移住者は男性31名(うち雲南出身者25名)と女性31名(うち擺夷<傣族>10名。台湾原住民族のタイヤル族女性4名も含む)で、現在の住民は孤軍の子孫の二代目や三代目の世代に入っています。
博望新村の街並み |
清境農場に数ある眷村のうち、標高が比較的高いところに拓かれた博望新村の当初の移住者は男性31名(うち雲南出身者25名)と女性31名(うち擺夷<傣族>10名。台湾原住民族のタイヤル族女性4名も含む)で、現在の住民は孤軍の子孫の二代目や三代目の世代に入っています。
雲南・ミャンマー料理の「滇緬的家」 |
博望新村はひっそりとした長閑な村ですが、「擺夷(雲南の少数民族である傣族のこと)」や「滇緬」など、雲南とミャンマー・タイ北部を思わせる名前がつけられたレストランや民宿が軒を連ねています。
雲泰料理レストランのメーサロン(美斯樂) |
タイ北部の国民党村「メーサロン(美斯樂)」の名を冠したレストランに入りました。
レストラン美斯樂の泰緬孤軍に関する展示 |
店内には雲南から異域に逃れた孤軍の古い写真と歴史解説が展示されています。撤退までの物語は龍岡の異域故事館とも共通する内容ですが、こちらの締めくくりには博望新村が開拓される話が出て来ました。
泰緬孤軍が博望新村に落ち着くまで |
1961年に孤軍の一部が博望新村に暮らし始める |
1961年に博望新村が開拓された |
”メーサロン”でいただく雲泰料理
錦灑と、傣味雞湯 |
レストラン「メーサロン(美斯樂)」は雲泰料理のお店。台湾で味わえるタイ料理の一種で、地理的に近い雲南とタイの特徴を持った料理が楽しめます。
椒麻雞 |
台湾のタイ料理屋では定番になっている鶏肉料理「椒麻雞」。衣をつけて揚げた鶏肉をカットし、酢ベースのタレをかけ、唐辛子・花椒・香菜(パクチー)等を散らした料理です。タイ料理をご存知の人からすると「どこがタイ料理???」と思うであろうほど、雲南色の強い一品。(カオマンガイトートと似ている部分もある???)
包料魚 |
「包料魚」。白身魚に生姜や唐辛子、ミントや葱などを刻んだものを開いた魚に詰めて包み、焼くか揚げるなどで仕上げた魚料理です。このお店のは揚げるタイプでした。
これも雲南料理がベースになっているようで、似た料理は新北市のミャンマー街の雲南料理店でも食べられます。同じ雲南村の里港でも出しているお店があるようです。
他にもハーブの効いた傣味雞湯や、イサーン料理のラープに似た錦灑、山當歸烘蛋(特殊なハーブを混ぜて焼いた卵焼き)、キャベツ炒めをいただきました。清境を始めとした高山の農場ではキャベツ栽培が盛んに行われており、キャベツのおいしさは折り紙つきです。
米干や米線を売る博望新村のおじさん |
台湾にある孤軍関係の雲南村である龍岡と里港、そしてここ清境にはどのような交流があるのでしょうか。少し場所は飛びますが、2024年4月20〜28日まで行われた桃園の龍岡米干節では、清境の人たちも現地に招かれていました。
孤軍の村同士の繋がり
2024年4月27日に行われた長街宴 |
泰緬孤軍の子孫が暮らす街としてもっとも規模が大きい桃園の龍岡では、毎年雲南文化を推しだしたイベント「龍岡米干節」が開催されます。
▶︎台湾で雲南の料理と踊りを堪能!10周年を迎えた2020年の龍岡米干節
2024年4月20日〜28日まで桃園で行われた龍岡米干節 |
2024年は4月20日、21日、27日、28日に渡って開催され、27日(土)の夜には長テーブルで料理をいただく「長街宴」が催されました。その長街宴に清境や里港の人たちの姿がありました。
米干節の長街宴であいさつをする桃園市長 |
長街宴の開幕時に来賓紹介があり、桃園市長の張善政があいさつを行なったほか、各地から招かれた来賓が紹介されました。この日はタイ北部の孤軍の末裔たちによる華人組織や中華学校の理事長、雲南同郷会の会長など、国民党孤軍繋がりの人々が一堂に会したようです。
気になるのはどんな人が来賓として招かれているか。桃園市の議員や区長、タイ北部の華人組織や学校の理事長、雲南同鄉會の会長、我らが中和華新街商圈の理事長の名も呼ばれていた気が…!!錚々たる顔ぶれです。そして客席には南投清境や屏東里港の雲南村からも関係者が来ていました#今日の忠貞市場 pic.twitter.com/UEOKQoIGlu
— amikawa (@amikawa125) April 27, 2024
長街宴の客席には里港や清境の方々のテーブルがあり、ステージの司会者とコール&レスポンスを行う一幕もありました。どうやら台湾にある孤軍の子孫同士の交流の一面を垣間見ることができたようです。
長街宴 |
滿星疊のみなさんと雲泰料理をいただく |
タイ北部の中華学校・滿星疊の人々との出会い
![]() |
龍岡米干節 滿星疊大同旅台校友會 |
実は長街宴に参加できたのは、龍岡米干節のブースで出会った滿星疊大同旅台校友會の方々のお誘いがあったからでした。
「滿星疊」はタイ北部チェンラーイ県にある華人村で、最も有名なメーサロンから15kmほどの距離にあります。この村は泰緬孤軍の第三軍の子孫たちが暮らしており、「大同中學」は麻薬王として名高いクンサー(クン・サ/昆沙)が開いた学校です。
米干節で出会った彼らは華僑学生として1970〜80年代に台湾に留学し、そのまま台湾で暮らすようになった華人ですが、家族や親戚はまだタイ北部に住んでいるそうです。
滿星疊大同旅台校友會のブースではタイ北部の茶畑で生産された有機栽培の紅茶が販売されていました。
滿星疊で作られる泰北茶(有機栽培の紅茶) |
![]() |
滿星疊の人たちが作る有機栽培の紅茶 |
孤軍がゴールデントライアングル(金三角)でゲリラ戦を展開していた頃、あの地域は罌粟(ケシ)の一大生産地でしたが、後に茶栽培に転換しました。そしてその茶業の発展を支えたのが台湾の茶関係者でした。
今でこそお茶のイメージも強いタイ北部の国民党村ですが、台湾とはどのような交流があったのか。詳しくは須賀さんの記事を参照してください:
第16回 タイ北部 元国民党華人が作る茶(1)メーサローンと国民党の歴史
第16回 タイ北部 元国民党華人が作る茶(1)メーサローンと国民党の歴史
私の好きなYouTuber、タイ在住のMark Wiensさんがメーサロンを訪れた時の動画です
清境から標高3275mの武嶺、そして福寿山へ
武嶺、標高3275m あいにくの天気 |
後編・福寿山に続く…
今回の記事では台湾にある孤軍関連の街「清境」と、他の孤軍村との関係を紹介しました。台湾にある孤軍の村は桃園の龍岡、高雄・屏東境界の里港、そして南投の清境があります。どの街も今では雲南文化を推しだした観光地となっており、最大規模の龍岡で行われる米干節では里港や清境からも住民が招かれているのを発見しました。
また、龍岡米干節では1954年の第一次撤退組の子孫だけでなく、70〜80年代にタイ北部の国民党村から華僑学生として台湾へ移住した華人たちの姿を見かけました。つまり龍岡には54年以降も雲南・国民党ルーツを持った華人が流入していることを物語っています。そして滿星疊のブースで扱っていた茶葉からは、タイ北部と台湾の農業を通した交流が垣間見えました。
台湾中部にある雲南とタイ北部をつなぐ旅・後編「台湾とタイ北部を繋ぐ天空の茶畑・福寿山農場」へ続きます。
参考資料
当ブログ内の関連記事
ask.fm
Follow @amikawa125
コメント
コメントを投稿