閩南文化に同化し、客家であることを忘れていた一族:台南の鹿陶洋江家集落


台南の有名なマンゴーの産地・玉井の近くにある鹿陶洋という単姓集落。そこに暮らす江一族は自らは閩南系の河洛人(福佬人)だと信じていたのですが、ひょんなことから客家にルーツをもつことを知り…?

今回は普通の客家の集落ではない…?鹿陶洋江家集落を訪れたレポートです。


2025年6月末の週末、香港在住邦人のグループと台南の玉井でマンゴーを食べるという合宿イベントがあり、台南へ行くことになりました。せっかく南部へ行くのだから、面白そうな場所があれば行ってみようと思い色々調べていたら、「鹿陶洋」という場所を見つけました。

鹿陶洋は玉井からさらに車で10分ほどの所にある集落です。台南駅からバスで1時間強かけて玉井へ行き、そこからタクシーで向かいました。

私と同行したのはkanatinさんこやまぐさん茶旅の須賀努さんの計4人。(50音順)




台南に客家はいるのか

17〜18世紀になると大量の漢人が華南地方から台湾に移住し開墾を始めます。閩南系(泉洲人、漳洲人)の人々に比べ、客家の人々は台湾へ渡った時代が少し遅れ、台湾西部の平野はすでに閩南人の集落が作られていたため、客家の人々はまだ開墾されていない山の方へ向かったというのがよく語られる大まかなストーリーです。

台湾では客家の人たちが多く暮らしているのは北部の桃園・新竹・苗栗などの山がちな地域、南部では高雄の美濃や六堆、東部では花蓮の玉里などがあります。

ここに含まれない中部の嘉義、彰化、台南などの西部平野にはあまり客家のイメージはありません。

そのため、台南にも基本的には客家の集落はない…というのが当初の認識でした。

調べてみると台南にも10万人余の客家人が暮らしているようで、白河区や楠西区に客家の集落があることが分かり、今回は玉井から近い楠西区の鹿陶洋を目指すことにしました。

鹿陶洋はどのような集落なのか

鹿陶洋の解説


鹿陶洋は1721年(清 康熙六十年)に福建省漳州府詔安縣から移住して来た江如南らの一族が開墾した土地で、その一族だけが暮らす単姓集落です。2009年に台湾の文化資産に集落建築群の項目で登録されています。

この集落に暮らす江一族は福建語を話すため、自分たちは閩南系の河洛人(福佬人)だと考えていました。しかし近年の研究で実は客家にルーツを持つことが判明したのです。

鹿陶洋集落の空間配置

鹿陶洋の主要な建物の解説

集落は風水に則り建物が配置されています。四進三落という構成で、中央に建つ祖祠堂の建築の左右に計13本の護龍(家屋)がシンメトリーに並びます。背後には山が聳え、その反対側には半月池が設けられています。一族の掟で全ての建物の高さは祖祠堂を超えてはいけないことになっており、伝統的な景観が保存されています。

拝亭と、その奥の公廳

集落の中心となる拜亭の手前でタクシーを降りて散策を始めようとした我々の前に、一人の男性が通りかかりました。挨拶をかわすと、親切なその方は集落の案内をしてくれるようでした。

江家の末裔・林俊賢校長(掲載許可取得済み)

中学校の校長をやっているというその人の語りにふと聞き覚えを感じました。どうしてだろう?と思ったら、なんと私が鹿陶洋を訪れる前に予習として読んだネットメディアの記事で取材を受けていた方が、まさにこの林俊賢校長だったのです!


こちらがその記事

雲林県で中学校の校長先生をやっているという林校長。普段はこの集落には住んでおらず、この日はたまたまマンゴーを買いに里帰りしていたのだそうです。

拜亭の入り口はマジョリカタイルで飾られている

まず拜亭の入り口です。塀のレンガはあえて隙間を空けて積まれています。これは外敵が近づいて来た際に、この穴から銃で攻撃するためだったそう。昔は出身地や言語の違いから集落同士の衝突「械鬥」が度々起こったため、集落の防衛は必須でした。

宋江陣

足元のタイルには数種類の武器が文様として入っています。これも当時の衝突の激しさを物語る意匠かと思ったのですが、これは宋江陣に関係するモチーフとのことでした。

宋江陣とは水滸伝に登場する宋江が率いる梁山泊の軍勢を模した武術と陣形を組み合わせたパフォーマンスで、台湾では高雄・内門の宋江陣が有名です。鹿陶洋でも鹿田宋江陣としてパフォーマンスが行われているそうです。

ルーツをたどると実は客家だった

客家の集落によく作られる「半月池」

林校長は姓が江ではありませんが、鹿陶洋江家の末裔です。江ではない姓を持つ子孫がいるのは、江家の人が結婚する際に、長子は江姓、次子は相手の姓を名乗る…という取り決めをすることがあるためだそうです。

そんな林校長の結婚相手は外省人の客家女性です。その相手と鹿陶洋集落を訪れ、半月池を見せた際に「あなたたちは本当に客家ではないの?」と聞かれたそうです。

一族はみな河洛人(福佬人)だと考えていた江家は、まさか自分らが客家人のはずは…、と驚いたようですが、実際に近年の研究によって、鹿陶洋の江家は客家の末裔だったことが判明しました。

神明廳

1987年に戒厳令が解かれ、中国大陸への親族訪問が可能となりました。その際に自身のルーツを探り、祖先について様々なことがわかりました。

鹿陶洋江家の開台始祖は第12代・江如南という人物で、清朝康熙六十年(1721年)に福建漳州詔安県を出発し、台南の鹿耳門から上陸。曾文渓を遡って現在の台南市楠西区へたどり着きました。

林校長は第24代に当たる末裔だそうです。

鹿陶洋集落の神明廳で祀られているのは江一族の祖先とされる東峰大帝。神像は第12代・江如南が運んできたものとされています。

祖祠堂

神明廳から埕を一つ抜けると見えるのが祖祠堂の建築です。正面の祭壇のほか、壁には族譜や重要人物の解説が掲載されていました。

祭壇の棚は年に一度開かれ、その年に亡くなったり、新しく誕生した家族の名前を書き込むのだそうです。

江一族の族譜


かつて福佬客と呼ばれた客底の人々

神明廳の屋根飾りは閩南の廟にもある剪黏のよう

鹿陶洋の江家がこの地に移住してきた18世紀には、すでに周辺には河洛人(福佬人)の集落が築かれており、衝突を避けるために元々の文化を捨て、周りと同化していきました。

客家語はすでに継承されず、閩南語(台湾語)を流暢に話すようにもなり、自らが客家であることを忘れていきました。

このように河洛人(福佬人)と同化した客家はかつて福佬客と呼ばれました。台南だけでなく、彰化などの西部平野にも福佬客が暮らしているようです。

ここ数年では「福佬客」の呼び名を「客底」と改めようという動きや、客底に関する調査研究も進んできています。

計画に基づき作られた集落建物間の通路

鹿陶洋江家古厝貴賓室

竹管厝

竹管厝

共同の洗い場は井戸と一体化?

鹿陶洋の洗い場は珍しい井戸と一体型

私は最近、共同の洗い場である「洗衫坑」の調査を趣味で進めており、主に台湾北部の客家の集落やそれ以外の農村を回っています。



客家の集落なら洗い場もあるだろう…と期待していたのですが、鹿陶洋ではほかで見ない珍しいタイプの洗い場が残っていました。

水道がまだ普及していなかった時代には集落の井戸が住民の生活用水の水源でした。興味深いことに、鹿陶洋の井戸は洗濯をする洗い場が一体となっていました。

桃園や苗栗などの客家集落の洗い場では、伯公(土地公)信仰と洗い場の空間が結びつく例が少なくないのですが、鹿陶洋の洗い場には神様は祀られていませんでした。

他の地域で見かけた洗い場は、農業用水路の水圳の流れを利用したものや、天然の湧水を貯めて洗い場とする例が多かったので、それとは異なるタイプの洗い場を見つけられたのは収穫でした。

挑水路

案内してくださった林校長の話では、自身が中学生の頃まで水道は通っておらず、井戸や集落を流れる挑水路から水を汲んでいたそうです。

建物沿いの通路に水路が走る


客底と洗い場

共同の洗い場「洗衫坑」について、客家の人たちは文化資産として認識し、信仰と文化が結びついた空間とされている例が多いです。しかし洗濯というのは人々が日常的に行う行為であり、洗い場を作っていたのは客家の人に限らないと考えられます。

そのためあまり客家のイメージがない地域の洗い場の例を比較対象としてあげられれば、客家の洗い場と、他のエスニックグループの洗い場文化の違いが見えてくるのではないかと考えています。

下のツイートは台湾北東部の宜蘭・冬山地域で見つけた洗い場です。宜蘭が客家の里として描写される例は少なく、台湾の農村というイメージのある地域です。しかし現地に行ってみると、この洗い場の近くに客家文物館がありました。(参観は要予約制だったので、まだ見られていません)

後で調べると、冬山も客底の人々が暮らしている地域のようでした。




このように、客家とは関係のない農村だと思っていた地域も、実は時代の流れで閩南文化と同化した客家にルーツを持つ「客底」が暮らしている例があり、訪れた地域の歴史を細かく調べていく必要が出てきました。

南米原産の樹葡萄

集落で栽培しているドラゴンフルーツ

2025年1月の地震による被害

鹿陶洋江家集落

2025年1月21日に嘉義・大埔で発生した地震により、台南市楠西区も大きな被害を受けました。鹿陶洋でも半数以上の家屋の屋根瓦が落ちるなど、約30戸の住民の家に被害が出たと報道されています。

私たちが訪れた6月末には、屋根を緑色のシートで覆った状態の家屋が多く、未だ修理されていない様子でした。

この集落は文化資産の集落建築群に登録されているため、手続きを経ない修理はできないため、現地の里長が関係当局への協力を依頼しているところだそうです。

屋根が崩れ、瓦も落ちてしまっている

緑色のシートをかけている家

文化資産とはいえ実際にこの家で暮らす人も多い集落なので、一刻も早い修復を望みます。

緑色のシートで屋根を覆い、修復を待っている


マンゴーかき氷を喫食

江家古厝 幸福芒果冰館

鹿陶洋は文化資産に登録されていますが、観光地として発達しているわけではなく、商店はほとんど見当たりません。唯一と言えるのが林校長の同級生の方が経営している幸福芒果冰館というカフェでした。

林校長の同級生が経営しているカフェ

我々一行はマンゴーの雪花冰と、普通のかき氷を注文。マンゴー天国・玉井から車で10分ほどの場所だからなのか、マンゴーかき氷で使われているのは愛文マンゴーだけでなく、他の品種のマンゴーや土マンゴーの塩漬けの情人果ものっていました。

芒果雪花冰

芒果挫冰

普通のかき氷(氷に味が付いていないもの)も工夫が凝らされていました。台湾ではかき氷に黒糖のシロップをかけるのが割と一般的なのですが、このお店のは蜂蜜が使われていたほか、レモンが添えられていて、途中で好みに応じて味変ができるようになっていました。

檸檬咖啡も飲みました

行動城堡咖啡館-幸福芒果冰
715台南市楠西區86號(map)

終わりに

江姓のねこちゃん?

客家のイメージがあまりない台南ですが、清代に移住して集落を築く一族もいました。しかし周りを閩南系の河洛人(福佬人)の集落に囲まれていたため、客家の文化を捨て、徐々に周りと同化していきました。原住民族の平埔族が漢化したという現象が、一部の客家の人々にも起こっていたんですね。何世代も経て閩南語を話すようになり、彼らは客家であることを忘れてしまいました。しかし近年の研究で鹿陶洋の江一族は客家にルーツを持つことがわかり、客家のアイデンティティーを取り戻しつつあるようでした。 


当ブログの文章・画像の無断転載を禁じます。





コメント