南洋華人の春節:タイ南部ソンクラーで迎える新年


タイ南部のソンクラ―という海辺の町には、かつて福建の漳州・海澄出身の吳讓が王国を建て、その子孫が建立した城隍廟があります。その廟は今も現地華人の子孫たちによって守られ、祖先の故郷である海澄との交流も行われているようです。

今回は2025年の春節当日に訪れたソンクラ―の城隍廟の様子と、少しだけルーツを同じくする台北のとある廟に関するお話です。



バンコクからタイ南部のソンクラー県へ

2025年の春節休み(1/26~2/1)にタイに行ってきました。前回の記事ではバンコクの華人に関連するお店や旅社を巡りました。



今回はタイ南部のソンクラ―県にあるハートヤイ(ハジャイ / Hat Yai / 合艾)とソンクラ―(Songkhla / 宋卡)へ行った時のお話です。


春節に華人の街を訪れるということ


2025年1月28日(農暦の大晦日)の早朝にバンコクのドンムアン空港を発った飛行機は午前7:45に南部ハートヤイ空港に到着。空港から乗り合いバスでバスターミナルへ移動し、Grabバイクでお目当ての点心レストランへ向かいました。

到着して早々、この時期に華人の多い街を訪れるデメリットに遭遇することになりました。

CHOKDEE DIMSUM(店休)

ある程度予想していたこととはいえ、やはり春節の期間はお休みしているお店が多いようです(華人料理のレストランの場合)。南洋華人の点心レストランで茶をしばきたかったです…。

地面に置かれる神様

装飾技法は転写なので、そんなに古いものではなさそうな染付の香炉

拜拜の準備をする人々

ハートヤイの街のあちこちで店の前にテーブルを出してお供え物を並べ、拜拜の準備をしている人々の姿がありました。

徒歩圏内には各地域出身の華人会館(福建・客家・廣肇・海南)や廟があり、華人の多い街であることを感じさせます。

タイ語と中国語で書かれたカレンダー


ハートヤイの舞龍隊伍


ハートヤイ鉄道駅の辺りへ行ってみると、なじみのある太鼓と銅鑼の音が聞こえてきました。

ハートヤイ舞龍隊伍

龍がハートヤイの街を練り歩いています。この辺りは華人経営の銀楼が多く、この隊は銀楼を訪れ、紅包を受け取っていました。

全メンバーが全身お揃いの赤い装束に身を包んでいます。台湾だと私服に廟の名前が入ったベストや帽子を身に着ける程度の軽装が多いイメージなので、タイ南部華人とのちょっとした違いを感じました。

ハートヤイ舞龍隊伍

ハートヤイ舞龍隊伍が銀楼を訪問

ハートヤイ舞龍隊伍

農暦の大晦日「除夕」ソンクラ―に到着


同日午後、ハートヤイのバスターミナルからソンクラ―へ向かいました。

National Museum Songkhla

ソンクラ―という地名はマレー語で獅子の意を持つ「Singola」が由来だとされています。18世紀には多くの華僑がこの地へやってきました。

1769年に福建の漳州から来た吳讓(Chin Yiang Sae Hao / 1717~1784)という人物は当地で税務官に任命され、一族はNa Songkhlaという名家となり、1775年には世襲制の「吳氏王国」を建て、ソンクラ―一帯を治めました。

National Museum Songkhla

現在Songkhla National Museumとなって居る建物の前身は1878年に建てられた吳氏王(ソンクラー王)の邸宅で、中華風の様式で作られています。

この博物館も参観したかったのですが、残念ながら春節のため休館。次回への課題となりました。

ソンクラ―の船着き場

ソンクラ―


ソンクラ―城隍廟で新年のお参りを

三靈殿 關聖帝君廟

18世紀から多くの華僑が集まったソンクラ―にも、出身地別の華人会館や廟があります。中でも規模が大きいのは福建会館で、町の守り神を祀る「城隍廟 City Pillar Shrine ศาลเจ้าพ่อหลักเมืองสงขลา」と、同敷地内に関羽を祭る「三靈殿 關聖帝君廟」があります。

のどかなソンクラ―の街並み

1月29日、新年を迎えた朝に城隍廟へ向かうと、すでに多くの参拝客でにぎわっていました。

タイ語・中国語・英語で書かれた看板

三靈殿 關聖帝君廟側の入り口から入場しました。新年らしく、真っ赤な服を着た参拝客がたくさんいます。

三靈殿 關聖帝君廟

台湾では見かけない巨大なお線香

建物の感じは台湾でもよく見る閩南式の廟なのですが、こんな巨大なお線香があり驚きました。

屋根瓦は赤い閩南式のように見える

石獅子は台湾でよく見るお顔とは異なる

三靈殿 關聖帝君廟

三靈殿 關聖帝君廟で参拝する人々

三靈殿 關聖帝君廟

虎爺

爆竹の跡

続いて同じ敷地内で隣り合う城隍廟へ移動します。こちらからは絶えず爆竹の音が鳴り響き、線香の煙も厚いです。

城隍廟の巨大線香を建てる台

城隍廟

ソンクラ―(宋卡)のこの城隍廟は1842年(清 道光二十三)に建立されたと言われています。吳氏王国の第四代王である吳志生の頃のことで、「永奠宋邦」と書かれた扁額(おそらく清道光丙午二十六年(1846年)のもの?)が残っています。

「永奠宋邦」と記された城隍廟の扁額

城隍廟に参拝する人たち。皆素敵な赤い服を着用している

2024年に182週年を迎えた時のもの

染付磁器の茶器で供えられる茶

お供えされた金紙

お供えされたお菓子や粽

景德鎮の「萬壽無疆」碗に入れられたお供え物

金属製の香炉

城隍爺

タイ風の像

興味深かったのは華人の廟でありながら、タイ風の人物像が祭壇のそばに立っていたこと。時代を経て、文化が部分的に移入されているのでしょうか。

タイ風の像

タイでよく見かけた色とりどりの輪

廟内の掲示物は殆どがタイ語だった

年間行事の案内もタイ語で書かれている

城隍廟

赤と金色でおめでたい雰囲気

敷地内には福建会館と華僑学校もあります。華僑学校では中国のHSK(漢語水平考試)も実施されるようでした。

ソンクラ―福建会館

ソンクラ―華僑学校

閩南建築によくある緑色の釉薬がかかった花磚

城隍廟を通した僑鄉・海澄県とのつながり

ソンクラ―城隍廟

ソンクラ―で吳氏王国を建てた吳讓は福建漳州の海澄県出身の華人です。两岸“城隍爷”海澄来相会によると、ソンクラ―の華人たちは近年、自分たちの城隍廟(1842年 清 道光二十三)を建てた吳家のルーツである漳州の海澄県の城隍廟を訪れ、交流を深めているようです。

タイ語で書かれた廟の沿革?(ソンクラ―城隍廟)

蠟燭に火を灯す参拝客(ソンクラ―城隍廟)

おみくじを読む人(ソンクラ―城隍廟)

城隍廟Tシャツを着た人(ソンクラ―城隍廟)

孫引きになりますが、『海澄県志』によると、本家・海澄城隍廟が建立されたのは明代隆慶五年(1571年)の事で、すでに450年ほどの歴史があります。

明代中期には九龍江下流にある漳州の「月港」と呼ばれる港から華僑や中国のモノが世界各地へ運ばれ、「海のシルクロード」の起点ともされています。後にこの辺りに海澄県が設置されました。今世界各地に暮らしている華僑の祖先の多くは海澄県の月港から世界へ出発したのでしょう。


福建漳州海澄から南洋へ、そして台湾へ

台湾にも海澄にゆかりを持つ城隍廟が存在する

ちなみに月港を出発した船は、明~清代の台湾へも渡って来ています。台南の南山公墓に「月港」の文字が残る墓碑が出土しているほか、ソンクラー城隍廟の方々と同じように、台湾にも海澄城隍廟にゆかりを持つ城隍廟があり、近年は台湾からも海澄の城隍廟を訪れる信徒がいるようです。

その城隍廟とはどの廟の事か?

台北霞海城隍廟(大稻埕)

どうやら台北は大稻埕にある霞海城隍廟(1853?~)がその廟らしいです。

霞海城隍廟はもともとは福建省泉州同安出身の陳一族が、故郷から神を迎えバンカ(艋舺 / 萬華)にて廟を建てたもので、名称の「霞」は同安の「霞城」から来ているとされています。しかしまた一方で「霞海城隍廟」の「海」の由来は漳州の「海澄」から来ていると書かれていました。なぜ同安の陳家が海澄にゆかりがあったのか分かりませんが、海澄で得た香火袋が「霞海城隍廟」に納められているらしく、何かしらの縁が感じられます。

そしてバンカ(艋舺 / 萬華)から大稻埕に移り、現在に至るようで、今でも陳家の一族によって管理されています。

臺灣城隍信眾攜六尊神像回福建海澄“探親”

台北霞海城隍廟の對聯に「海澄」の文字がある


終わりに

ソンクラ―城隍廟

春節にタイ南部のソンクラ―を訪れ、華人の廟で新年の雰囲気を味わう今回の旅。南洋華僑といえば多くが福建や広東などの華南地方出身で、彼らは南洋の各地だけでなく台湾にも渡ってきました。

18世紀から20世紀初頭までソンクラ―を治めた漳州人の吳讓。その出身地である海澄(旧称:月港)は海のシルクロードの起点でもあり、多くの人やモノが運ばれました。

今回は城隍廟を通して福建とソンクラ―、福建と台湾のつながりを感じることができました。

宋卡華僑公學全體校友敬贈のベンチ



参考記事:

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