バンコクで粥ぐび〜公雞碗をめぐる南洋の旅〜


バンコクで粥ぐび。すなわち数品のおかずでお粥をいただくという中国の潮州で見られる食文化「打冷」。夜風に吹かれながらいただく気取らない食事がバンコクの片隅でも行われていることを知り、現地で体験してきたお話です。





「公雞碗で粥ぐびしたい」が叶う南洋

バンコク某所の粥専門店

数年ぶりのタイで南洋華人の文化を探すシリーズ。前回はオールドバンコクのコピティアム形式の朝食店へ足を運びました。

タイの華人は潮州系が多数を占め、タイ料理にも影響を与えています。そして食べ物を盛り付ける器にも、潮州のモチーフが残っているのです。今回は潮州やタイ、および南洋に活きる公雞碗を追っていきます。

始まりはこのツイートでした。

潮州の「打冷」がバンコクで独自に進化とは一体…?現地へ行って確かめなければ。

Khun Lek Porridge / ข้าวต้มคุณเล็ก
5/3 Atsadang Rd, San Chao Pho Sua, Phra Nakhon, Bangkok 10200 タイ(map)

バンコクの王宮前を流れる運河Khlong Rop Krung沿いに並ぶショップハウス

運河沿いを歩いていたらお目当ての店を発見。夜が始まったばかりの時間帯ですが、すでに人であふれています。

多くの客でにぎわう涼しい夜の時間帯

歩道に伸びる日よけの下には数脚のテーブルが並び、パステルカラーのメラミン皿に載せられたおかずの数々と、磁器のお碗に注がれた白粥がテーブルを彩っています。

テーブルに積まれる公雞碗

粥が注がれるその碗こそまさに公雞碗!何十年も繰り返し粥を注がれたであろうニワトリの絵が入った磁器の碗よ…。(個体ではなく種の話)

好きなおかずを指差し注文

パステルカラーのメラミン皿も南洋らしさを感じるポイント

おかずが次々と皿に盛られていく

席を確保し、カウンターでおかずを指差し注文します。公雞碗に入ったお粥もすぐに運ばれて来ました。

粥ぐびデッキを構築

このような白粥+おかず形式の食べ物を、タイではカオトムグイ(khao tom gui ข้าวต้มกุ๊ย)というそうです。プッティダ・キッダヌーンの「タイになる」:分かち難く定着したタイに置ける中国(川口幸大編『世界の中華料理』収録)にタイに移住した華僑の食べ物として紹介されていました。

曰くカオトムグイは当時苦力(クーリー)として働いていた中国人車夫がよく食べていたもの。カオトムは白粥、グイは中国語の「鬼(グイ)」から来ているそうで、中国語でいう鬼は「酒鬼(大酒飲み)」や「窮鬼(貧しい人)」を表す侮蔑語であるように、移民の下層労働者に対するネガティブなイメージがついた食べ物だったようです。

潮州の「打冷(daa laang)」、すなわち潮汕夜粥(小菜)という数品のおかずでお粥をいただく食文化が、タイでは「カオトムグイ」として継承されているんですね。

今回訪れたKhun Lek Porridgeで提供されるおかずは完全なる中華料理というよりも、時代に伴いタイ風になっているように感じました。(とは言え油で炒めるなどの調理法がそもそも華人由来のものだったりと、現在のタイ料理における中国料理の影響は深いです)

筆でさらりと絵付けされた公雞碗

潮州の「打冷」が華人の移民とともにタイへ渡り、バンコクの食の風景に馴染んでいる…。しかも潮州から広まった公雞碗とともに…。というのが今回の胸熱ポイントでした。



華南生まれの公雞碗をタイに伝えた潮州人

そもそもニワトリの絵が描かれた碗「公雞碗」はどのように生まれ、タイに伝わったのでしょうか?鶏のモチーフが陶磁器の文様として現れたのは明の成化(1465年—1487年)の頃だとされています。

故宮博物院所蔵の鬥彩雞缸杯

当初は宮廷で使われる高貴な逸品でしたが、清朝の頃には福建や広東など華南地方の窯でも生産されるようになり、庶民の間にも広がりました。

鶏という字は「家」と同音で、一族繁栄の願いが込められ愛されてきました。

清代の庶民版公雞碗は潮州の窯でも生産され、香港をはじめとする華南地方一帯に普及していきます。

清代から現代まで続く公雞碗には、上絵付けで赤と黒を基調とした鶏(家)、芭蕉葉(業)、牡丹花(富貴)が描かれ、それぞれのモチーフに願いが込められています。

例えば戦後の中国で生産され、香港でも流通している公雞碗はこのようなデザインです。↓


タイにおいて公雞碗の生産が始まった背景にも潮州人が関係していました。

李炳炎の『近當代新馬泰潮人陶瓷業研究』によると、陳心如という人物がタイで公雞碗の生産を広めた重要人物のようです。

潮州大埔に祖籍を持つ1911年生まれの陳心如(陳森裕と表記される例も見られる)は幼少期より陶磁工房で働いており、1947年にベトナムからタイ北部へ移り、1950年に現地の村人が使っていた研石にカオリン(磁器を作るのに必要な土)が含まれていることに気づき、従兄弟の郭修欽とランパーンでカオリン探しをはじめました。

一年ほど経ち二人は見事カオリンを発見するのですが、窯を建てる資金がないため投資を募り、合同公司を設立します。しかしなかなかうまく行かず、紆余曲折の後1965年に独立し、ついに龍窯を開設。ここで故郷で馴染みのあった公雞碗を作り始めたのが、タイにおけるチキンボウル(公雞碗)の起源となったのだそうです。


陳心如(もしくは陳森裕、アパ・E・シムユー・セーチン)が開いたランパーンの窯は現在は子孫によって運営されるダナバディ・セラミックミュージアムとなり、公雞碗の聖地になっています。


華僑とともに南洋へ渡った公雞碗…台湾では

金門烈嶼鄉文化館展示の公雞碗

同じく華南地方から移住して来た華人がマジョリティを占める台湾にも、公雞碗は渡って来ています。

例えば台南の安平で展示されていた伝世品や、金門(アモイの対岸)の烈嶼鄉文化館でも民家に残っていた古い公雞碗が見られました。

台南安平(ゼーランディア城)展示の公雞碗

清代の頃にはすでに華人移民と共に台湾へ入ってきていた福建・広東製の公雞碗ですが、日本統治時代にも汕頭産の公雞碗を大量に輸入しており、農村部まで普及していたようです。

参考:「#公鷄碗」「#潮州窯 」「彩繪雞紋大碗

第二次世界大戦が終わり日本が去ったあと、物資が不足していた台湾では、輸入に頼らない陶磁器生産が発展していきます。

華南製の公雞碗を模したニワトリの絵が入った器は北投で生産されるようになり、その後鶯歌でも生産されるようになりました。

1950~60年代・鶯歌(鶯歌陶瓷博物館収蔵)

こうした台湾北部製の公雞碗の生産期間は1950~60年代と短く、60年代以降には現代的な大同社が操業した影響もあってか、新しく作られることはなくなってしまいました。

戦後台湾製の器たち。鶯歌陶瓷博物館展示

台湾で粥ぐび:清粥小菜

一方の台湾における粥ぐび文化はどのように生まれ、現在はどのような姿をしているのでしょうか。

台湾では白粥を数品のおかずとともにいただく「清粥小菜」店の歴史は浅く、1960年代に誕生しました。

清粥小菜の老舗で今でも有名なのは台北の「青葉」(1964年開業)です。

一昔前の台湾は3食を家で食べる農村社会で、外で食事をする機会は多くありませんでした。日本統治時代にはエリートが酒楼で社交したり、国民政府になってからは裕福な華僑がレストランで宴会を開いたりと、外での食事といえば豪華な食事というのがお決まりでした。そんな中、胃が疲れない素朴な料理を出すお店が求められて生まれたのが、お粥と台湾の家庭料理を提供する青葉だったそうです。(陳玉箴2021「台灣菜」的文化史p228)

清粥小菜のお店で提供される料理は「家常菜」と呼ばれるもので、基本的には家庭で食べる素朴なおかずです。

1960年代の台湾の家庭料理には、古くから台湾に暮らしている閩南系華人の味だけではなく、傅培梅の料理番組やレシピによって広まった中国各地域の料理も定着していたようで、清粥小菜のお店のメニューにもそれが反映されています。

参考:青葉のメニュー

青葉は高級路線の清粥小菜レストランですが、より庶民的なお店も現在ではたくさんあります。

私がよく行くのは台北萬華にあるお店で、好きなおかずを食べたいだけ盛る自助餐形式のところです。

台湾とタイの粥ぐび文化を比べると…

苦力として海峡植民地に渡った華人は当初は単身の男性が多く、早くから彼らをターゲットにした飲食店が生まれていました。タイは植民地にはなりませんでしたが、数多くの華人が移住していました。

そのような社会情勢のなか、タイのカオトムグイは現地では下層に見られる食文化だったのが特徴として挙げられます。私が今回体験したのは一店舗のみなので、提供されるメニューが純粋な潮州料理の老舗もあるのか、タイにローカライズされるのが一般的なのかは未調査です。(有識者のご意見を求みます!!)

一方の台湾では、数品のおかずで粥を食べるという食事スタイルは17世紀に華人が移住してきてからすでにあったものの、食事は家で摂る農村社会だったため、お粥が「お店で食べるもの」になったのは比較的最近のこと。

外食文化が登場したのは日本統治時代の頃で、当時はエリート階層を対象としたものでした。庶民にも外食文化が広まるのは60〜70年代以降に台北の都市化が進んでからでした。

さらに台湾の清粥小菜で提供される「台湾菜」には国民政府が力を入れた中華文化復興運動の影響で、中国各地方の料理が入ってきているのも特徴だと言えます。

使われる食器も、タイでは潮州の伝統的な公雞碗が現役で活躍しているのに対し、台湾では特定の食器が清粥小菜に結びついているということはありません。(強いて言えば現在の台湾を代表するセラミック会社・大同のシンプルな白磁碗?)

台湾では日本統治時代に日本から瀬戸美濃や肥前ほか大量の日本製食器が輸入されたため、中国磁器の輸入・利用が相対的に少なくなったばかりか、国民政府が来てからは共産党中国との通商関係を閉ざしたため、表向きには中国製の磁器は台湾に入ってこなくなりました。それは台湾において独自のやきもの生産を後押しする要因になりましたが、北投や鶯歌などで作られるやきもののデザインは中国の伝統的なデザインからは離れ、独自の美意識を育んでいきました。そのため華南地方や南洋諸国で現役で使われる公雞碗や霊芝紋の染付磁器の文化は、台湾では断絶してしまっています。

タイの街角で出会う、活きた公雞碗たち

上述の通り、台湾ではすでに断絶してしまった公雞碗ですが、今回のタイ旅行では現役で活躍する公雞碗や杯をたくさん見つけることができました。
街の麺食堂に並ぶ公雞碗。

タイ南部ハジャイの華人廟「廣蓮洞」(map)のお供えに使われていた公雞杯。

南部ナコンシータマラートのコピティアム「ร้านโกปี๊ สาขาศาลากลางจังหวัด 咖啡廳」(map)で使われていた公雞盤。

現代の公雞碗を入手せよ!

春節をひかえ、華やかに飾り付けられるヤワラート

タイで現役の公雞碗が活躍しているということは、つまりお店で普通に売っているということでもあります。

というわけで、公雞碗が売っているお店を探しにバンコクの中華街・ヤワラートへ。

人の波に流されて市場を彷徨っていると、食器を扱うお店を発見しました。

โง้วงี่อีวด 吳義發

公雞碗のありそうな雰囲気を察して店の奥へと足を踏み入れると…

ヤワラートの華人系商店にて発見した現代の公雞碗

ありました公雞碗!

スタンダードな赤と黒で描かれたニワトリのお碗、その右側にはあのお粥屋さんで使われていたのと全く同じ公雞碗も並んでいました。

自分用のおみやげに一つ入手し、大切に台北まで持って帰りました。

โง้วงี่อีวด 吳義發
165 Soi Yaowarat 6, Khwaeng Samphanthawong, Khet Samphanthawong, Krung Thep Maha Nakhon 10100 タイ(map)

観光客で溢れる夜のヤワラート


終わりに

Khun Lek Porridge 

タイで粥ぐびをしたお店で使われていたのは、伝統的なニワトリの絵が入った公雞碗。タイに渡った潮州人の食文化と窯業のつながりが今でもバンコクの片隅に継承されている様相を実際に見ることができました。


筆者が生活する台湾も福建・広東の華人移民がマジョリティーを占める社会ですが、「潮州人」のアイデンティティーを残す人は現在ほとんどいらっしゃらないこと(これは当時の戸口調査で詳細な出身地が記録されなかったことも要因のひとつでしょう)、日本統治時代や国民政府の遷台などの社会の変化を経て、台湾では公雞碗の姿を見かけることはなくなってしまいました。

夜風に吹かれながらお粥をいただく…このようなシンプルな営みにも、タイと台湾にはその成り立ちや現状に様々な違いがあることがわかりました。





おまけ:南洋に広がる公雞碗
台湾大学インドネシア学生会のTシャツにインドネシア版公雞碗「ayamのお碗」が描かれていました。かわいいですね。

今回はタイの例を取り上げましたが、マレーシアやインドネシアでも現役の公雞碗が活躍しているんですよね。いずれ行かねばなりません。



参考文献

  • 川口幸大(2024)世界の中華料理
  • 陳玉箴(2021)台灣菜的文化史
  • 李炳炎(2017)近當代新馬泰潮人陶瓷業研究
  • 徐文琴(2010)1930-60年代台灣碗盤紋飾研究。臺灣文獻61卷2期


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