【台湾考古学】台南の骨董屋で見つけた清代道光年間、德化窯の霊芝紋青花皿


2019年秋に台南を散策中にたまたま見つけた骨董屋で出会ったこの青花の皿。これはどういったものなのか?何がすごいのか?というのを今回はご紹介していきたいと思います。




この霊芝紋の青花皿はどのようなものなのか?


このお皿は中国で作られたものです。直径15cmほどの小ぶりで少し深みのある形状をしています。中国語で青花瓷、日本語では染付磁器と呼ばれるタイプの焼きものです。この文様は「霊芝紋」と呼ばれるもので、手描きで文様が施されています。

德化は中国南部の福建省にある街で、古くから焼きものが盛んでした。德化窯で焼かれた商品は17世紀〜19世紀には台湾だけでなく東南アジア各国へも輸出されました。


高台には銘款と思われる文字が入れられていますが、かなりラフに書かれているので判読が難しいです。二文字書かれていますが、一つ目はおそらく「永」で、二文字目は不明ですね…。

陳建中編著『德化民窯青花』によると、「永」がつく銘のパターンとしては「永玉」や「永吉」があるそうです。これらの銘款は商号や制作者の名前であると考えられているようです。


外側にも文様が描かれています。高台の高さは1cmほど。高台先端には釉剥ぎが施されています。表面を触ってみたり、高台の作りを観察すると、ろくろで作られていることがわかります。

そもそも青花とは?

そもそも青花というのは日本語では染付磁器、海外ではブルー&ホワイトとして呼ばれている焼きもののことを指します。青花が世の中に登場するのは元代以降のことで、技術的にはコバルトで表面に文様を描き、透明釉をかけて高温で焼成して作られています。中国語ではこうした技術で作られる焼きものの種類を「釉下彩」と呼びます。

17世紀、大航海時代に入ると、海のシルクロードを通して香辛料や茶葉、そして陶磁器が西洋にもたらされるようになります。この時期、中国では海外への輸出用に焼きものを生産します。特に輸出用に作られた青花を「外銷瓷(日本語は貿易陶磁)」と呼んだりもします。

特に景徳鎮で作られる芙蓉手(kraak porcelain/克拉克瓷)というデザインの青花皿はヨーロッパでの人気が高く、クオリティーの高いものが数多く作られました。

明の時代には海禁政策によって中国からの輸出が止まることもあり、日本では有田でも青花と同じような焼きもの制作が始まり、輸出するようになりました。その際に伊万里港から輸出されたので、海外では伊万里焼として知られています。

オランダ・レーワルデン陶磁器博物館

また、ヨーロッパでも青花を模した白地に青の文様を描くブルー&ホワイトの焼きものが登場します。例えばオランダのデルフト焼きや、ドイツのマイセンなどが有名だと思います。

過去記事:
▶︎レーワルデンの陶磁器博物館でオランダ陶磁器発展の歴史を探る | Keramiek Museum Princessehof, Leeuwarden

その他、イスラム圏やベトナム、タイなどでも同じような白地に青で文様を描くやきものが登場します。当時はこのデザインが世界的に流行していたのですね。

オランダ・レーワルデン陶磁器博物館

もともと中国には各地に窯元があります。台湾という土地から見ると、オランダ統治時代〜明代〜清代には江西省の景德鎮や、福建の德化、漳州窯(廣東北部の汕頭から輸出されたのでスワトウ・ウェアと呼ばれます)などの焼きものが入ってきます。

このように台湾へもたらされた焼きものは主に海外輸出用で、民窯と呼ばれる民間の窯元で大量生産されていました。

民窯に対し、中国では官窯と呼ばれる宮廷御用達の焼きものを作る窯もありました。官窯の焼きものは清代中期に最盛期を迎え、今では故宮博物院に展示されるなどして現在に伝えられています。

清代の台湾

台南某所の骨董店

今回の青花皿ですが、これを見つけた台南の骨董店の店主によると、清代道光年間(1821年〜1850年)徳化窯のものとのことでした。

これまで発掘報告書や博物展の展示でも似たようなものを見ているので、徳化窯というのは納得です。年代は清中晩期にあたる道光年間のものというのが確かならば、少なくとも170年前のものに当たります。

骨董店店主は台湾のある家庭に眠っていたこの皿を入手したのだそうで、170年もの間、割れずに残っていたのはすごいことだなと思いました。

台南某所の骨董店

ではこれが使われていた当時の台湾はどのような時代だったのでしょうか?

一般的に台湾史を語る際には、先史時代、オランダ統治時代、鄭成功による明、清代、日本統治時代、国民党時代…と分けられることが多いと思います。

台湾にはオランダ時代以前から、漢人が商売や海賊のために台湾の海外沿いに住み始めたようです。オランダ時代に入るとさらに多くの漢人が開墾のために台湾に住みはじめます。

1662年に鄭成功がオランダを駆逐すると、清朝に対抗するための軍人としてさらに多くの漢人を台湾に連れてきました。

清代に入ると、清朝政府は「漢番」の隔離政策をとり、漢人が原住民族(番人)の土地に入ることを禁止しました。それでもどんどん漢人による開墾はすすめられていったようです。

このように増加した漢人の痕跡は、遺跡から出土する漢人の物質文化の増加にも反映されています。


参考文献:
図説 台湾の歴史 周婉窈

台湾中部の港町「古笨港」

北港朝天宮

雲林縣北港と、嘉義縣新港や南港一帯は、昔は笨港と呼ばれる港町でした。海からは離れていますが、大きな川沿いに作られた川港で、18世紀前半には閩南や広東地区から多くの漢人が移り住みました。

当時は「一府、二笨、三艋舺」と言われるほど、台南(府)に続く賑やかな街として知られていたようです。(ちなみに艋舺は台北)このほか彰化の鹿港が入るバージョンもあります。

北港にある重要な媽祖廟である朝天宮には、今でも台湾中から多くの参拝者が訪れます。

北港朝天宮

北港〜新港一帯で行われた発掘調査や、ビル建設に伴う遺物の発見などにより、かつて古笨港として栄えたこの地域の性格がわかってきています。

雲林県北港を川の対岸に望む
参考記事:
【考古台灣】古笨港遺址 看不見的河港城市

発掘され、博物館に展示される徳化の霊芝紋

歴史を振り返ってみると、台湾西部にはオランダ時代以前から漢人が移り住んできたことがわかります。漢人移住にともなう物質的証拠も、考古学的な研究から明らかになっています。

古笨港考古園區に展示される清代の磁器

古笨港戶外考古園區

先ほど言及した雲林県北港から嘉義県新港あたりの板頭村に「古笨港戶外考古園區」という簡単な遺物の展示施設があります。

ここでは台中にある国立自然科学博物館のチームが1999年と2003年に行った発掘で出土した遺物の一部が展示されています。

参考ページ:
新港のStory

古笨港戶外考古園區

出土した青花、白磁や陶器などが土壁から顔を見せるような面白い手法で展示されています。

古笨港戶外考古園區

お碗や皿、杯など、日常で使う食器類が出土しています。移入してきた漢人が使用したり、台湾からさらに輸出するために一時期笨港に保管されていたのでしょうか。

古笨港戶外考古園區

個人的に霊芝紋が好きなのでそればかりに注目してしまいますが、実際には文様の種類は多様です。

古笨港戶外考古園區

ここにも当然のように霊芝紋のお碗がありました。

古笨港戶外考古園區

古笨港戶外考古園區

小さなかけらであっても、霊芝紋はわかりやすいですね。


台中の自然科学博物館に展示される板頭村遺址の出土品

國立自然科學博物館

古笨港戶外考古園區には主に青花の破片が展示されていましたが、その発掘を行った台中の国立自然科学博物館の考古学展示のコーナーにも、板頭村遺址からの出土品が展示されています。

当然ながら、こちらのほうが状態の良いものが見られます。

國立自然科學博物館

國立自然科學博物館

結構大きめの青花皿もあります。棚の左上には霊芝紋のお皿があるのが見えます。

國立自然科學博物館

私が入手したものよりは大きめのサイズだと思います。

十三行博物館の特別展で見かけた霊芝紋の皿

十三行博物館

2019年9月26日〜2020年1月12日まで、新北市八里にある十三行博物館で特別展『海上瑰寶』が行われていました。

参考ページ:
來自琉球王國的寶物 十三行展出百件海上瑰寶


十三行博物館

この展示では博物館のある八里の近くの下罟坑遺址(台湾の北西部)から出土した遺物と、宜蘭縣の淇武蘭遺址(台湾の北東部)からの出土品も見ることができました。

十三行博物館

左が下罟坑遺址出土の18〜19世紀前半の青花皿。19世紀前半というと、清代道光年間(1821年〜1850年)にも当てはまりますね。生産地には言及されていませんが、私のものとほとんど同じに見えるので、もしかしたら徳化窯産かもしれません。

右側は淇武蘭遺址から出土したもの。こちらの方が状態がいいですね。

十三行博物館

德化窯青花盤靈芝紋/淇武蘭遺址出土

私の入手した皿(左)と、淇武蘭遺址出土の皿(右)を並べて見ると、かなり似ているように思います。そもそも当時は手作りで、型ではなくろくろで作っていますし、絵付けも印製ではなく手書きであるため少しずつ仕上がりにばらつきがあるのですが、この二つはかなりそっくりです。



東部の淇武蘭へは平埔族の馬賽人が運んだ

十三行博物館

前述の十三行博物館の特別展では、台湾北東部の宜蘭県にある淇武蘭遺址で出土した霊芝紋の青花皿が展示されていました。

この遺跡のある淇武蘭という土地は、原住民族である葛瑪蘭族に関連する土地で、発掘では先史時代にあたる下文化層と、近世頃の上文化層の異なる二つの文化の形跡が見られます。

淇武蘭遺址

淇武蘭遺址は開発に伴い発見された遺跡で、当時は橋桁の下で水をせき止めながら発掘を行ったそうです。現在では遺跡は川の中に隠れてしまっています。


淇武蘭遺址

古笨港や八里などの台湾西部には、当時から多くの漢人が暮らしていたので、青花のような漢人に関連する遺物が出土するのは不思議なことではありません。

でも東北部の原住民族の部落である淇武蘭でも青花が見つかっているのは興味深いことです。歴史学者・考古学者の研究によると、馬賽人という平埔族のグループが当時の交易に関わっていたのだそうです。

参考文献:
謝艾倫(2012)淇武蘭遺址上文化層的外來陶瓷:一個歷史考古學的研究(PDF)


まとめ


  • 大航海時代に東アジア〜東南アジアに流通していた
  • 台湾西部各地や北東部でも使われていた
  • それが台湾の家庭で170年もの長い間保管されていた


先日入手した清代徳化窯の青花皿は確かに博物館級の貴重品!とはいえ、これはあくまで当時の人々が日常的に使用していた食器で、故宮博物院に展示されるような皇帝の使用する名品ではありません。

今回紹介したのは主に台湾で出土した徳化窯の霊芝紋の青花皿でしたが、台湾以外の土地でも親しまれていたものだと沈没船資料などが物語っています。

テクシン号(的惺號)は1822年(道光二年)に福建省のアモイを出航し、インドネシアのバタヴィア(現在のジャカルタ)へ向かう途中に沈没してしまった貿易船ですが、この積荷にも霊芝紋の青花皿があったようです。

参考ページ:
Discovery of the Tek Sing Cargo

こちらのブログ『水中遺物: テクシン号からの陶磁器に纏わる嫌疑』が紹介している書籍『水中文化遺産:海から蘇る歴史』によると、テクシン号に積まれていたとされ、オークションに出品された陶磁器などが、もしかしたら1822年に沈没したと言われるテクシン号の積荷ではない可能性もあるとのことです。

骨董屋や美術史家、考古学者が陶磁器の年代を推測する際に、沈没年などの文献資料が残っている沈没船は大きな手がかりとなることがあります。

もしこのテクシン号の積荷がオークション会社に操作されたのであれば、これまでの貿易陶磁の年代推測の基準が揺らぐかもしれませんね…。

参考ページ:
陳國棟教授講演「的惺號?沉船打撈與歷史考訂」紀要

徳化県の陶瓷博物館でテクシン号(泰興号)の展示が行われたそうです:
400件「泰興號」沉船出水陶瓷珍寶回歸產地福建德化

※テクシン号の中国語名は「的惺號」「得順好」「泰興號」など表記が様々。陳國棟教授の一稿でも、解説されています。


これらの様々な先行研究を掘り進めながら、海外で出土した徳化窯の霊芝紋の青花皿に関する情報も集めていきたいと思います。

香港では今でも霊芝紋をあしらったお碗が使われていると聞きますし、もし台湾以外の博物館で霊芝紋の青花を見つけたら教えていただけると嬉しいです!

地図で見る台湾の清代陶磁器




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