台湾大学周辺で育まれた東南アジアの味と冷戦期の華僑政策


台湾大学のお膝元・公館エリアには数多くの東南アジア料理レストランがあります。来台当初から何気なく利用していたこれらのお店ですが、その背景には冷戦期の華僑政策がありました。

現在の公館の景観はどのようにして作られてきたのか?今回の記事では、戦後国民党政府の華僑政策と当時の時代背景を振り返りながら、台湾の東南アジア料理を味わっていきます。

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台湾大学のお膝元「公館」エリアは学生街として賑わい、汀州路には数多くの商店や飲食店が軒を連ねています。中でもベトナムやタイ料理など東南アジア料理のレストランがたくさんあり、私たちの日々の食事に変化を与えてくれます。

今回の記事では、公館エリアで長く営業を続けているベトナム料理の「翠薪越南餐廳 Madame Jill's Vietnamese cuisine」とタイ料理(雲泰料理)の「泰國小館 Sara Thai」の背景を紹介しつつ、どのように今の景観が作られて来たのかを探っていきます。


東南アジアの味を台湾に紹介した華僑たち

汀州路

台湾に東南アジアの食堂が出現したのは1970年代のこと。その食堂を開いたのは、ベトナムやタイから台湾へ移って来た華僑の人々で、台湾大学に通う華僑学生を相手に商売をしていました。


1975年開業のベトナム料理屋「Madame Jill's」

翠薪 越南餐廳 Madame Jill's Vietnamese Cuisine

公館に台湾最初期のベトナム料理のお店「Madame Jill's」ができたのが1976年のこと。

創業者の林志明一家はベトナム戦争が原因でベトナムを離れ、10年ほどラオスに居住したのち、1974年に兄が台湾へ進学したのをきっかけに、台湾へ移住してきました。

最初に「翠林」をオープンし、続いて「翠園」「翠薪」と、家族経営で3店舗のベトナム料理レストランを経営しており、台湾におけるベトナム料理の老舗となっています。

翠薪メニュー

当時の台湾ではベトナム料理などのエスニック料理は根付いていなかったものの、ベトナム戦争の影響を受けたベトナム在住の華人・華僑が難民や学生として台湾に渡って来ており、彼らが主な客層だったようです。

公館エリアは近くに台湾大学や師範大学があり、華僑学生の多くがそこに通っており、台北の他のエリアよりも来客を見込める立地だったため、Madame Jill's以外にも東南アジア料理のお店がオープンしています。

難民として台湾に渡ったベトナム華僑についてはこちら

翠薪 越南餐廳

翠薪と分店の翠林、翠園の名前が入ったおしぼり

翠薪 越南餐廳

翠薪 越南餐廳


同じく1976年に公館エリアにベトナム料理の「銀座」も開店しました。こちらも創業者はベトナム華僑です。




台湾で最も長く営業している老舗タイ料理屋「泰國小館」

泰國小館

台湾におけるタイ料理の老舗、汀州路の「泰國小館 Sara Thai Food」。

こちらのお店を開業したのは、国共内戦で国民党軍として戦った泰緬孤軍の一家です。雲南省からタイ北部メーサロンに逃れた泰緬孤軍だった周名揚さんは、傣族の妻と娘の周瑪莉さんと共に1974年に台北へ移住してきました。

屋台から始めたタイ北部の料理のお店で、現在も営業を続けるタイ料理屋としては台湾で最も長い歴史を持っています。

泰國小館メニュー

泰國小館のメニューを見ると、「雲南大薄片」という雲南料理も登場します。以前別の記事で紹介していますが、台湾には雲南にルーツを持つ泰緬孤軍やタイ・ミャンマー華僑の方が開いたタイ料理屋が多く、それらは「雲泰料理(雲南系タイ料理)」というジャンルになっています。

現存する台湾最古参のタイ料理屋は雲泰料理屋なのです。タイ華人のマジョリティーが潮州系なのと一線を画しており、タイ本国や日本でいただくタイ料理とも別のテイストが味わえます。

泰國小館

雲泰料理と新住民のタイ料理など、台湾におけるタイ料理の解説はこちら
▶︎台湾におけるタイ料理屋から多様な歴史と系譜を見る


椒麻雞

この日に注文したのは「椒麻雞飯」。このメニューはカオマンガイトートに似た揚げた鶏肉がメインの料理ですが、かかっているソースは酢や花椒から作られる雲南風の味です。台湾で生まれた雲泰料理には他にも「月亮蝦餅」があります。

泰國小館

泰國小館の他にも汀州路には多くのタイ料理屋がありますが、そのほとんどは雲泰料理です。曼德樂さんも私がよく行くお店のひとつ。こちらの店員さんはミャンマー北部のミッチーナ出身の華人(雲南系)の方でした。あまりなじまれていないミャンマー料理よりもタイ料理の方が親しまれているので、戦略的にタイ料理屋として経営をされているようです。

雲泰料理の曼德樂さん



雲泰料理の阿剛さん


冷戦と華僑、彼らはなぜ台湾へ?

翠薪越南餐廳や泰國小館の創業者はどちらも東南アジアに暮らしていた華僑・華人でした。70年代にベトナムではベトナム戦争が、タイと台湾(中華民国)は断交、そして冷戦…と社会が大きく変化しており、現地に暮らす華人にも少なくない影響があったようです。

1949年、国共内戦に敗れた国民党の中華民国は台湾に撤退してからも中国と対立しており、国民党vs共産党のイデオロギー闘争が続いていました。

共産党の中国との戦いは東南アジアに暮らす華僑の自陣営への勧誘へと移っていきます。当時のアメリカの副大統領ニクソンが東南アジア訪問後に台湾で蒋介石に面会し、華僑学生の進学や台湾(中華民国)のインフラ整備に援助を行うことを進言しました。

アメリカの援助(美援)により、1954年から華僑学生の進学に奨学金が用意され、台湾大学では華僑学生のための宿舎(学生寮)が建設されました。こうして多くの東南アジア各国の華僑が、学生の身分で台湾へ渡って来たのでした。



台湾大学に残る華僑学生の集会所「僑光堂」

冷戦期の東南アジア華僑学生奪い合いの痕跡は、台湾大学にも残っています。

1967年にアメリカの資金援助を受け、台湾大学に華僑学生の活動中心として建設された「僑光堂」(命名:蒋介石)。(のちに「鹿鳴堂」に改名)




1968〜97年まで僑光堂は「台湾と世界の華僑を繋ぐ中心であり、華僑と華僑学生の帰国後の家」という理念のもと、華僑学生の活動中心として使われてきました。(※"帰国"したという祖国とは中華民国の事を指す、という認識が現れている)

1980年代には台湾(中華民国)の雙十節の式典に参加する華僑は4万人にものぼったようです。


建築学の角度から見ると、僑光堂の建築は国民政府が台湾に来たばかりの頃に行った「中華文化復興運動」の文脈に位置付けられると言われています。

正統な中華文明の継承者を標榜した国民党は、台湾に中国の宮廷建築の様式を取り入れた建築物を建てていきました。(圓山飯店、中正紀念堂の兩廳、故宮博物院など)。僑光堂もそのうちの一つで、馬愓乾によって設計されました。僑光堂の建築に使われている装飾は、中国建築の要素を現代主義建築の技術をもって翻訳した作品と言えるようです。


このような「大中華主義」に基づく北式建築は、それまでの台湾に根付いて来た閩南式建築とは様式が異なるため異質さもありますが、この時代の空気を反映する歴史の証にもなっています。


僑光堂は老朽化し、実は2018年頃には鹿鳴堂(僑光堂)取り壊し計画がありました。しかしかつての華僑学生などの反対運動があり、2019年に歴史建築に登録され、保存されることになっています。






(中華文化復興運動については、故宮博物院の特別展でも少し触れられていました)




▶︎故宮博物院の特別展から見える「台湾」意識


終わりに

泰國小館

今では台湾の街のいたるところにあるベトナム料理やタイ料理のお店ですが、これらの登場には70年代の中華民国を取り巻く冷戦構造が影響していました。

東南アジアに暮らす華僑・華人が台湾へ移住し、僑居国の料理を提供する…。それが台湾におけるエスニック料理レストランの始まりでした。

特に華僑の学生が通っていた台湾大学のそばの公館には当時開業したベトナムやタイ料理のレストランを始め、多くの東南アジア料理の食堂が軒を連ねています。私はこういった歴史を知る前からこれらのレストランを利用していましたが、背景を知るとまた違った味わいが生まれてきます。




参考資料

当ブログ内の関連記事
▶︎台湾のミャンマー街のカフェはチャイハネのようだった | 中和華新街形成の歴史と現在
▶︎台湾におけるタイ料理屋から多様な歴史と系譜を見る
▶︎台湾の知られざるベトナム街:木新市場と木柵市場



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