砥部焼か北投焼か?型紙摺絵染付鶴紋碗の謎を追う


ある日コレクターの方からひとつの染付磁器を譲り受けました。それはこれまで私が集めていた清代の染付磁器よりも時代の降る近現代のやきもので、なにも手がかりのないところからこの鶴紋碗の謎を解くための日々が始まりました。

今回は近現代台湾における製陶業の雄・北投を中心に、鶴紋碗についてのお話をしていきます。




すべてはコレクターさんから譲り受けた鶴紋碗から始まった

型紙摺絵染付鶴紋碗

2022年のある日、とあるコレクターの方からこちらの碗を譲り受けました。台湾の古いお碗(多分日本統治時代)であるということ以外に情報はなく、とりあえず情報を集めてみよう~というところから早3年が経ち、少しずつこの碗のことがわかってきました。

まずはこの碗の成形技法や装飾技法などを観察してみます。筆者はこれまで台湾の近世(17-19世紀)に華南から運ばれた清代の染付磁器などを観察してきたのですが、この鶴紋碗はそれより後の時代に作られたものだということは、絵付けに使われる青色から推測できます。

青色に天然の呉須ではなく、近代の人工的に合成された酸化コバルトを使っています。従来の染付磁器(青花瓷)と同様に、絵付けをした後に透明釉をかけて焼成した下絵付け(釉下彩)と呼ばれるやきものです。

個人蔵鶴紋碗(内面)

器内面でまず目立つのが「蛇ノ目釉剥ぎ」がある点です。蛇ノ目釉剥ぎとは内面にかけられた釉薬の一部をドーナツ状に剥ぎとる技法で、焼成の際に別の個体を置いても融着することがないため、重ねて積むことができます。こうすることにより一度の焼成でたくさん焼くことができるので、大量生産品の磁器だったことがわかります。

また、釉剥ぎされた部分にろくろ跡のような圏線が入っていたり、裏面を見ると高台内部にもろくろ成形を思わせる痕跡が見られます。

個人蔵鶴紋碗(外面)

次に文様についてですが、口縁部と底部にはドットで三角形を作り、腹部には丸で囲まれた鶴紋が配置されています。器一周に計12羽の鶴紋がめぐらされています。この装飾技法は「型紙摺絵」というものです。

油紙に穴を開けて入れたい文様の型紙を作り、成形された素地に型紙をあて、その上から酸化コバルトを刷り込むことで、手軽に目的の文様を入れることができます。日本では型紙摺絵は江戸時代から行われていたようですが、瀬戸美濃では1882(明治15)年頃から本格化します。別の産地では愛媛県の砥部焼も1878(明治11)年に導入され、大正以降もこの技法は残ります。

上の個体の文様を観察すると、三角形4つと鶴4つが一つの型紙に配置されており、型紙を3周することで器全体に文様を入れることができるようです。

口径12.5㎝、器高4.8㎝、底径4.8㎝。胎土は白く、釉薬にはツヤがあります。

実物の観察から得た情報をもとに、これの産地や生産年代などを探っていきます。まず見つかったのは以前台湾大学で行われた『青花瓷還能説什麽?「非典型」青花特展』のサイトでした。

型紙繪飾印花青花鶴紋碗 臺灣 北投 Blue and White Bowl with Stenciled Crane Design, Taiwan, Beitou Kilns

解説によると、展示されていた鶴紋碗は1922-1943年頃に台湾北部の北投の大屯製陶所で生産されたものであるようです。

ただ胎土の色や厚み、胎土の磁器化の程度などは、私の所有する個体とは少し異なり、北投の物の方がやや粗雑な作りをしている印象です。


台湾各地で出土した鶴紋碗

一旦「北投産の鶴紋碗」という存在を認識すると、実は台湾各地で見かける機会が多いことに気づきました。

例えば博物館の展示に見られる鶴紋碗の破片。

新北市立黃金博物館所蔵の北投窯製鶴紋碗(破片)

新北市立黃金博物館所蔵の染付磁器(破片)

北投からもそう遠くない台湾北部・金瓜石にある黄金博物館では、採集地点は明らかでないものの、北投窯の磁器片とされるものがあり、中には鶴紋碗や、型紙摺絵技法を用いた別の文様入りの破片も見られます。

新北市立黃金博物館

桃園市復興区にある「大豹群故事館」にも鶴紋碗が展示されていました。

大豹群故事館(桃園市復興區)

大豹群故事館は新北市三峡周辺に暮らしていたタイヤル族の集団の歴史を伝える博物館です。

大豹群タイヤル族は日本統治時代に三峡の集落を追われ、桃園市の復興郷へ逃れてきました。当時、理蕃政策により原住民族の活動範囲は制限され、境界線には電気の通った鉄線が張られました。こうした活動圏を規定する線を隘勇線(あいゆうせん)と呼びますが、その周辺で採集されたのがこの博物館の展示品です。

大豹群故事館所蔵・隘勇線周辺の採集品(陶磁器)

蛇ノ目釉剥ぎの入った鶴紋碗や、それと同じような胎質や形状の文様違いの碗、磁器製の歯磨きペーストの入れ物などが展示されていました。

大豹群故事館所蔵・隘勇線周辺の採集品(ガラス製品)

ガラス製品は薬品の瓶が多いようです。これらは隘勇線上に作られた見張りの小屋などで暮らした人が使ったものかもしれません。



型紙摺絵の染付福寿紋碗

台南の安平で行われた発掘調査の成果展「考古埕-尋找熱蘭遮市鎮」では、海外輸出向けの日本製の型紙摺絵の標本が展示されていました。

この型紙摺絵染付碗は主に海外の華人向けと思われる「福寿」の字が入ったもので、安平以外にも台湾の近現代遺跡でいくつかの出土事例があります。

北投の鶴紋碗と比べると、やはり胎土の質や厚み、コバルトの発色などに違いがあります。

考古埕-尋找熱蘭遮市鎮


先日参加した桃園鉄道駅の発掘調査でも、鶴紋碗の出土事例がありました。


桃園で見た個体は、私の所有する鶴紋碗に一番近く、胎土の厚み、高台の作り、コバルトの発色や釉薬のツヤなどが類似していました。

この他、台湾で行われた発掘調査で出土した鶴紋碗の事例には以下のようなものがあります。




砥部のスンカンマカイと伊予ボール

私物の鶴紋碗と台湾出土の鶴紋碗を比べると、胎土の質(磁器化の程度)や色、厚み、酸化コバルトの発色に釉薬のツヤ、高台の作りなどの違いに気づきます。

果たして私の鶴紋碗は北投産なのか、それとも日本産(瀬戸美濃か砥部)なのか?という疑問が頭から離れなくなりました。

日本産の型紙摺絵染付碗についても知る必要があります。

輸出向けの型紙摺絵染付磁器として知られている大正~昭和の商品には、愛媛県砥部焼の「伊予ボール」や、「スンカンマカイ」があります。


通称スンカンマカイと呼ばれる型紙摺絵の染付碗。主に沖縄の消費者向けに砥部で作られたものとされています。

紋様は北投の鶴紋と概念的に近く、口縁部と底部に三角形を配して真ん中に主文様と入れるタイプや、鶴紋をメインモチーフに周辺に梅の花を配置するものなどがあるようです。

しかし形状は少し異なります。スンカンマカイの口縁部は端反りで大きく外に反っており、器高も結構高いようです。

沖縄向けのスンカンマカイの他、中国や東南アジア向けには伊予ボールと呼ばれる型紙摺絵染付碗が砥部から輸出されました。


砥部焼の型紙



北投焼の産地へ

北投三層崎公園

結局北投の鶴紋碗の特徴とは?という疑問が常にあり、2024年秋にお世話になっている砥部の先生と北投の窯跡へ向かいました。

貿易陶磁界隈では「生産」「流通」「消費」各段階それぞれに対して調査研究が行われますが、今回の北投採集の旅は「生産」にスポットを当てたものです。鶴紋碗を生産していたという大屯製陶所の跡地を巡察しました。

北投三層崎公園

北投の窯業は日本統治時代に本格的な生産が始まります。北投では背後にそびえる山からやきもの作りに欠かせない土が採取でき、貴子坑や水磨坑という川のそばにいくつかの窯が築かれ、初期には花瓶など、その後は食器を作るようになりました。

北投の採土場(ケタガラン族の歴史を巡るガイドツアーに参加したときの写真)

北投の採土場

水磨坑

日本統治時代の1920年代頃から生産が本格化しますが、戦後には自然災害により環境の変化が起こったため採土が禁止され、北投での製陶は衰退していきます。

北投 保德宮

北投 保德宮に山で採土をする人の写真が展示されている

北投はやきものの町としてはすでに衰退しましたが、台湾における窯業の先駆として人々の記憶に残っています。1960年代頃からは北投の陶工が鶯歌に移住して製陶を続けるなど、やきものの中心は別の場所へ移っていきました。


大屯製陶所跡での採集品

北投大屯製陶所跡地の採集品

青花瓷還能説什麽?「非典型」青花特展』で言及されていた「大屯窯業所」は、1923年に水磨坑という川のそばに、兵庫県出身の賀本庄三郎が設立しました。

賀本は1943年に台湾人の徐嵩栢に大屯窯業所を売却し「東洋陶器商行」と名を変えますが、最終的に1970年には操業を終えており、窯のあったとされる場所は地上からは何の痕跡も確認することができませんでした。

現在窯跡は畑となっており、地面にはわずかに焼き損じなどの破片や匣鉢(さや)などの残骸が残っていました。この窯跡へは清華大学や台南芸術大学なども地表調査を行なっているので、目立つ遺物はすでに拾い尽くされている状態でした。

私物の鶴紋碗(左)と北投採集の鶴紋碗(右)の実測

かろうじて採集できた北投・大屯製陶所の窯跡の鶴紋碗をさっそく実測していきます。やはり私物の鶴紋碗とは胎土の色や質、厚み、コバルトの発色、高台のつくりなどに違いがあります。ですが蛇ノ目釉剥ぎを行う点や、使っている型紙など、共通する部分もあります。文様をトレースしたものを重ねると、両者の文様がぴったり一致していたので、同じ型紙を使っていたと思われます。これは陳新上の聞き取り調査でも「型紙は日本から輸入していた」とされている通りです。



終わりに

今回の北投での採集資料により、生産地である「大屯窯業所」の鶴紋碗の特徴について少しばかりの知見を得ることができました。大屯窯業所の鶴紋碗は私物の鶴紋碗とは若干異なる特徴を持っていたため、結局私の鶴紋碗は北投(の別の窯か、年代の違いか?)の物なのか、砥部などの日本製のものなのか、答えを得ることはできませんでした。

ちなみに北投での採集資料の実測図などは、考古学研究会から2025年12月に発行される「考古学研究」に掲載されているかもしれません。機会がありましたらぜひご覧いただけると幸いです。





参考文献:

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