2021年に自転車旅行へよく行くようになってから桃園市復興区にすっかりハマったamikawaです。
美しい自然とタイヤル族の文化に触れられる復興区。何度か通い、当地の歴史を調べるうちに台湾の現政権と桃園市が目指す『移行期正義』の文脈も感じる旅になりました。
桃園市復興区はどこにある?
復興区は桃園市の東南部に位置し、市内で唯一山の中にある行政区です。主な住民はタイヤル族で、角板山とも呼ばれる地域です。その地名の由来は地形が"角板"に見えたからという説や、タイヤル族の言葉でPyasanという清朝に抵抗した英雄を紀念したものだ、などの謂れがあるようです。
台北からは、自転車なら片道3時間半程度、往復すると100㎞ほどの距離です。
公共交通機関で行く場合、台北からは桃園市復興区まで直通で行ける手段はなく、台鉄やバスで鶯歌や桃園市、大渓、中壢などへ向かってから、さらにバスを乗り継いで行く形になります。片道3時間弱の道のりです。
復興区の観光スポット
この記事では復興区の以下の観光スポットをご紹介します。
- 角板山商圏
- 大豹群故事館
- 小烏來風景特定区
- 羅浮温泉
- ロシン・ワタン紀念公園
- 石門水庫
角板山商圏
復興区は桃園市の中で唯一山の中にある行政区で、多くのタイヤル族が住む地域です。
山の中にあるため人口流出や就業機会の少なさに悩まされていた地域でしたが、1995年に『角板山形象商圏』(map)開発計画が始まり、復興區公所周辺は観光客向けのお店やレストランなどが並ぶ商店街になりました。
『形象商圏』というだけあって、タイヤル族の意匠や食文化などを押し出した観光地となっています。
毎年行われる自転車レースのTour de Taiwanでは、角板山公園が桃園ステージのゴールにもなっています。
角板山商圏は丘の上に入り口があるため、大渓方面、三峡方面、羅浮方面のどこから行っても長い山道を登らないといけないので、自転車民には目指しがいのある目的地です。
角板山の名産:桃スムージー、タイヤル族の料理、拉拉山コーヒー
水蜜桃冰沙などを売る店が通りにたくさん並んでいます |
角板山商圏は復興区で一番にぎやかなエリアです。メインストリートである中正路にはたくさんのお店が並んでいます。
山薬餅を売るお店のねこちゃん |
山猪肉ソーセージや山薬餅、桃のスムージー(水蜜桃冰沙)など、食べ歩きできる小吃を売るお店が多いほか、おみやげに良い椎茸や金針など干しキノコ等の乾物、地元の蜂蜜、馬告なども並んでいます。
香菇湯 |
角板山商圏では香菇炒飯や香菇湯など、椎茸を使った料理が定番のようで、多くの食堂で見かけます。(画像には椎茸が写っていませんが、スープの底にたくさん入っていました)
復興區農會咖啡 |
自分用のおみやげには復興区農会でインスタントコーヒーを入手しました。復興区は環境がコーヒー栽培に適しているようです。
つい先日、桃園市が拉拉山コーヒーというブランドを立ち上げたという報道がありました。その商品開発に復興区の農会も協力しているようです。
私が入手したのは上の報道のブランドのものではないのですが、復興区農会が出しているコーヒーです。(5袋入り200元)
この日はタイヤル族料理のお店で、熱した石板の上で焼かれた山猪肉と、粟入りのご飯を注文。烏來でもおなじみの竹筒飯などもありました。
ただ、商圏内はグループ向けの合菜などを提供するスタイルのお店が多いので、ソロ旅行者にはちょうど良いお店の選択肢があまりないように感じました。
警戒心が強い子と懐っこい子 |
ねこツーリズムの目的地としても角板山商圏はおすすめできます。
角板山行館と新渓口吊橋
中正路から伸びる路地を進むと梅園が広がっており、角板山行館や樟脳収納所などの建物があります。
角板山行館 |
かつて蒋介石が別邸として使用していた角板山行館(map)が一般に公開されています。館内には1950年代に蒋介石が角板山で過ごす様子や、当時の外交の写真などが展示されていました。
角板山行館咖啡 |
角板山行館の手前には樟脳収納所の展示を兼ねたカフェ(map)がありました。ここでくつろぐ茶トラねこちゃんが懐っこくて大変かわいかったです。茶トラちゃんのほかに三毛ちゃんもいるそうですが、この日は残念ながら会えませんでした。
角板山行館咖啡のねこ小乖ちゃん |
角板山行館から思親亭という東屋へ向かって歩いていくと、高台から対岸を望むことができます。
溪口部落 |
対岸のタイヤル族の集落・渓口部落につながる新渓口吊橋は台湾で最も長い吊橋です。
2018年にリニューアルオープンしたこの新しい橋は、エメラルドグリーンの水を湛える石門水庫をまたぐフォトスポットとして人気があります。
かつて大豹社のタイヤル族も角板山から下渓口部落まで吊橋を渡って往来していたそうです。(大豹社については後述します)
忠孝路の歴史解説
忠孝路には清代から戦後までの歴史解説がありました |
メインストリートの中正路に平行する形で、忠孝路という閑静な通りが伸びています。この通りには角板山地区の清代から戦後までの歴史を紹介する解説が掲示されていました。
日本統治時代の原住民族の住居 |
隘勇制度や日本統治時代のタイヤル族住居、福興宮の沿革などについて、当時の写真を交えて紹介しています。なんと日本語訳も掲載されていました。
大豹群故事館
2021年11月に開館した大豹群故事館 |
台7線から角板山商圏へ向かう桃117号線を半ばまで下ったところにある介寿国中の敷地内に、大豹社故事館(map)が建っています。
角板山商圏に2021年11月にオープンしたばかりの大豹群故事館は、角板山に暮らすタイヤル族の歴史を知ることができる故事館です。
介寿国中の敷地内にあります |
大豹群故事館の開館時間は毎週水曜~日曜の10:00~15:00(月・火曜休み)。規模はあまり大きくないうえ、開館時間も長くはないので角板山商圏に入る前に寄るのがいいと思います。
故事館には当地のタイヤル族が経験した大豹社事件についての物語が展示されています。
タイヤル族の言葉で書かれた故事館の看板『msbzinah squ kinhulan na Topa』 |
タイヤル族の抗日戦争・大豹社事件
『大豹社故事館』の大豹群とは、かつて大豹渓の流域に『大豹社』を中心とした集落を構えていたタイヤル族のグループのこと。中国語では大豹(dà bào)と書かれますが、タイヤル族の言葉では『Topa』と呼ばれていたそうです。
大豹渓は新北市の三峡周辺を流れる川で、もともとの集落は復興区よりも北にあったのですが、日本統治時代に経済開発の名のもとに当地のタイヤル族は土地を追われ、現在の復興区周辺まで南下してきた歴史があります。
『大豹社事件』とは日本の理藩政策に抵抗し、タイヤル族による抗日戦争へと発展した事件を指します。
大豹群の総頭目であったワタン・セツ(瓦旦燮促 / Watan Syat、またはワタン・アモイとも書かれる)はそれに抵抗し、抗争は1900年から1907年まで続きました。
1909年、日本の武力に敵わずタイヤル族は降伏しました。頭目ワタン・セツは息子のロシン・ワタンを人質に取られ、住民は大豹渓流域から移動するための補償を受け、土地を去りました。
その後、地図からは大豹社の文字が消え、文献には「滅亡」と書かれました。しかし実際には大豹群のタイヤル族は南下し、現在の復興区の志継や佳志、庫志、卡外などの集落に移住しており、特に志継部落は大豹社の子孫が多く暮らしているのだそうです。
隘勇線の跡地に残ったもの
清朝のころから、山地に住む原住民族と平地の漢人の生活領域を分けるために柵や土豪などが設けられ、原住民族の住む山を包囲する制度がありました。この生活領域の境は『隘勇線』と呼ばれています。電線の碍子(がいし) |
日本の銃弾 |
日本統治時代の食器類 |
駐在所などの拠点跡には、当時の日本人が使っていた生活用品なども落ちていたようです。この時期に発展した窯元は北投や鶯歌、苗栗、南投などがありますが、この写真の碗もおそらくそれらの窯で焼かれた台湾製の陶器だと思います。
日本統治時代の薬瓶など |
今では高電圧鉄条網や地雷は撤去されていますが、隘勇線のあった場所にはこのような遺物が残っており、当時の原住民族と日本人との衝突の歴史をうかがい知ることができます。
タイヤル族の視点から歴史を語る
大豹群故事館のパンフレット |
2016年に蔡英文大統領が原住民族に謝罪し、原住民族の視点で語られる『原住民族史観』が構築されるべきであると説きました。それに呼応するように、大豹群故事館は地元タイヤル族の視点から歴史が語られています。
大豹群のタイヤル族は抗日戦争で土地を追われ離散した過去があります。大豹群故事館は離散したタイヤル族の人々が再び団結するための拠点となっていくのではないでしょうか。
小烏來風景特定区
小烏來への道中・大漢渓 |
新北市には烏來(ウーライ)というタイヤル族の集落がありますが、復興区にも同じ名前の観光スポットがあります。
Ulayとはタイヤル族の言葉で温泉を表すそうです。小烏來風景特定区(map)のエリア内に現在は温泉施設はないようですが、小烏來瀑布やスカイウォークなどの見どころがあります。
小烏來風景区への入り口の坂にあるタイヤル族の英雄像 |
北部横貫公路(台7線)から小烏來へ入る桃115線の入り口に、太陽に弓矢を放つタイヤル族の英雄像が建っています。
小烏來までの道中から大漢渓を望む |
自転車で行く場合、桃115線の最初は特に勾配がきつく、小烏來に着くまでもずっと上り坂です。山の上から大漢渓と向かいの羅浮部落が見えます。
小烏來へは台湾好行のバスも運行しています。(桃園駅や大渓老街、角板山行館などから乗車)
小烏來風景特定区のゲートをくぐったら滝を見られる展望台があり、そこを通過し少し下ると小烏來の観光エリアに到着します。
小烏來観光のハイライトとも言えるスカイウォーク(天空歩道)は時間ごとに入場者数を制限していました。
小烏來風景特定区のゲート |
小烏來風景特定区のゲートをくぐったら滝を見られる展望台があり、そこを通過し少し下ると小烏來の観光エリアに到着します。
小烏來風景特定区に入ってすぐの食堂にて |
小烏來観光のハイライトとも言えるスカイウォーク(天空歩道)は時間ごとに入場者数を制限していました。
私が小烏來に到着したタイミングはちょうど12時~13時の休憩の時間にあたってしまったのですが、小烏來にはお店や遊歩道などがあったので、時間をつぶすのには困りませんでした。
入場料は50元で、スカイウォークと小烏來観光エリア内の吊橋(天空縄橋)との共通チケットになっていました。火曜定休。
この吊橋「天空縄橋」の先はハイキングコースになっており、小烏來域内だけを回る短いコースと、ハイキングコース先の義興吊橋を渡り、川の向こうの羅浮部落まで歩く1時間以上のコースがありました。
スカイウォークのチケットで吊り橋(天空縄橋)も渡れます |
この吊橋「天空縄橋」の先はハイキングコースになっており、小烏來域内だけを回る短いコースと、ハイキングコース先の義興吊橋を渡り、川の向こうの羅浮部落まで歩く1時間以上のコースがありました。
義興吊橋は、霧社事件をテーマにした映画『セデック・バレ』のロケ地になったのだそうです。(2022年現在、義興吊橋は改修工事のため通行不能になっています。工事は2022年の4月までのようです)。
沐懷樹咖啡簡餐(map)では、山猪肉のソーセージや、モチモチ食感の粟ドーナツ、馬告打那茶葉蛋(マーガオとTanaというハーブで味付けされた茶玉子)などが売られていました。
羅浮温泉
小烏來から桃115線を戻り台7線を登っていくと羅浮部落に到着します。ここは温泉のあるタイヤル族の集落です。
復興区の羅浮や小烏來、爺亨は日本統治時代から有名な温泉地でしたが、土石流などで埋まってしまった状態でした。2018年から一帯の温泉開発がすすめられ、羅浮に無料の足湯がつくられたのを皮切りに、2021年11月には公共浴場がオープンしました。
2021年11月オープンの羅浮温泉 |
私が初めて羅浮を訪れたのは2021年10月。この時は試験運営中で、11月11日に正式オープンだと教えてもらえました。
羅浮の公共温泉と無料の足湯
羅浮部落に2018年にオープンした無料の足湯(map)は、台7線を宜蘭方面に向かう途中にある「義興吊橋」の案内の標識を左折してすぐの所にあります。
羅浮温泉のエントランス |
公共浴場の料金は一般280元、子供や高齢者は140元でした。最新情報はFacebookページをご確認ください。
→復興名湯-羅浮溫泉のFacebookページ
→復興名湯-羅浮溫泉のFacebookページ
羅浮花園珈琲
温泉の向かいにあるカフェ『Louvre Cafe 羅浮花園咖啡』(map)へ。
ところで中国語でルーブル美術館のことを「羅浮宮(luó fú gōng)」と言うのですが、そういえばどうしてこの集落は羅浮部落というのだろう?まさか地名の由来はルーブル美術館…?と気になったので調べてみると、かつてこの地域は拉號社(ラハウ社)の領域で、戦後にラハウから羅浮(luó fú)に改められたのだそうです。
オープンエアスタイルのこちらのお店では、飲み物やかき氷などのスイーツ類、小吃からちゃんとした食事まで提供していました。羅浮部落にはあまり観光客向けのお店がなかったので、ほとんどの旅行者はこのお店を利用するのではないでしょうか。
タイヤル族の山猪肉のソーセージを馬告で味付けした一皿 |
地元っぽいものを食べようと思い、山猪肉のソーセージを原住民族のスパイス・馬告(マーガオ)で味付けした一皿を注文しました。アイスミルクティーも美味しかったです。
カフェにはねこちゃんの姿も |
そしてここでもねこちゃんとの出会いがありました…!人間に対しては少し警戒心の強い子たちでしたが、ねこ同士は仲良しのようでした。
ロシン・ワタン紀念公園
ロシン・ワタンの像 |
2017年8月に落成したこの紀念公園では、タイヤル族出身のエリートであったロシン・ワタンの生涯が写真とともに紹介されています。
タイヤル族の医師 ロシン・ワタン
ロシン・ワタン(1899-1954)(樂信・瓦旦/Losin Watan)は、20世紀初頭に大豹社の頭目を務めていたワタン・セツの長男です。
大豹社事件の際に人質とされたロシン・ワタンは、日本統治時代にタイヤル族として初めて現代医学の教育を受けた人物です。
1908年に「渡井三郎」と名を改め、1916年に総督府医学校に入学。1923年からタイヤル族の部落各地の公医として活動しました。
ロシン・ワタンは1929年に日本人の日野家との婚姻を通して「日野三郎」に改名しました。40年代には東京での式典に参加したり、総督府評議員になるなど、当時台湾原住民族を代表する人物でした。
部族のリーダーから白色テロの受難者へ
第二次世界大戦が終わり、日本人が台湾から撤退すると大陸から国民党政権が台湾にやってきました。三民主義が唱える『民族平等的徳政』を期待し、名を中国名の「林瑞昌」に改めます。
国民政府のもとでもロシン・ワタンは郷長や台湾省政府諮議として重要なポストに就いていました。
ロシン・ワタン紀念公園 |
1947年2月28日に二二八事件が起こり、台湾は戒厳令が敷かれる白色テロの時代へと入っていきます。
当初ロシン・ワタンは部族の安全のため、当地の人々にはデモなどに参加しないよう説いており、国民政府から評価を得ていました。
この時期は国民政府との関係も良好だったため、ロシン・ワタンは日本統治時代に失った祖先の土地に帰れるよう「三峡大豹社祖先失地」陳述書を提出しています。
その後も省議員として原住民族の権利回復や、地元の生活や教育の改善などに努めました。
ロシン・ワタンの生涯 |
しかし中国大陸で起こっていた国共内戦で国民党が敗戦し台湾に撤退してくると、状況が一変しました。
1952年に当局は「高山匪諜案」の名目でロシン・ワタンを投獄。1954年に処刑されました。
地元の偉人を紀念する
そんな偉人の名誉を回復するべく、2017年にこの紀念公園がつくられました。原住民族による移行期正義の記念碑としても、象徴的な空間になっています。
石門水庫
桃園市の複数の区にまたがる巨大なダムである石門水庫は、大漢渓から流れ込む水を蓄え、台湾北部の重要な水源となっています。1956年から建設が始まり、64年から運用されています。
そんな石門水庫ですが、建設にあたって立ち退きを強いられたタイヤル族の集落があったことを訴えるドキュメンタリーが2016年の8月1日(原住民族の日)に公開されました。
復興区のほかのエリア同様、石門水庫の建設予定地にもタイヤル族の集落がありました。その集落の名前は『卡拉社部落』。
卡拉社部落のタイヤル族の人々は、1957年に集団で故郷を離れ、政府が用意した大渓区の中庄へ移住しました。しかし63年の台風で住めなくなるほどの被害を受け、観音区の大譚新村へ引っ越すことになりました。さらに83年に公害問題が発生したため三度目の移住を余儀なくされ、とうとう元々の集落の住民は離散してしまいました。
ダムと発電所の建設により台湾の農業・工業は成長し、台湾経済は発展しました。台湾北部の多くの人が石門水庫の恩恵を受けています。
しかしその陰には故郷を失った卡拉社部落のタイヤル族の人々の悲しみがありました。なにより問題になっているのは、その後の政府の不十分な補償により、卡拉社部落の人々が各地を漂流することになってしまった点です。
ダム沿いの道路、桃63線 |
ダムと発電所の建設により台湾の農業・工業は成長し、台湾経済は発展しました。台湾北部の多くの人が石門水庫の恩恵を受けています。
しかしその陰には故郷を失った卡拉社部落のタイヤル族の人々の悲しみがありました。なにより問題になっているのは、その後の政府の不十分な補償により、卡拉社部落の人々が各地を漂流することになってしまった点です。
石門水庫 |
なぜ卡拉社部落の人々はその時に政府に抗議しなかったのか。「戒厳令下では政府に反対しようものなら、どんな目にあうかわからない…」。ドキュメンタリーで卡拉社部落出身の方がそう話していました。戒厳令下の社会に流れる重苦しい空気を思わせる内容でした。
移行期正義:歴史の真相を追求し、過去の傷を癒す
今回紹介した桃園市復興区の観光スポットを振り返ると、2016年~2021年落成といった新しい施設が目立ちます。そして、ここ数年でオープンしたスポット(およびドキュメンタリー)からはある共通点が見えてきます。
例えば大豹社事件や石門水庫の卡拉社部落は、時代や為政者は違えど、両者は政権によって故郷を失った原住民族のお話。
ロシン・ワタンは白色テロの受難者となり、国家の暴力によって名誉を傷つけられ、処刑されたタイヤル族のエリート。
21世紀の今、こうした過去の出来事を紀念する観光スポットの登場は、過去の不正義を反省する『移行期正義』というキーワードで繋げることができ、現政権と桃園市の目指す方向が見えてくるような気がします。
多元的な視点で台湾の歴史を語る
大豹群故事館やロシン・ワタン紀念公園では、角板山タイヤル族の視点で過去が語られています。
外部からの観光客にとっては、その土地の人々の視点で語られた、主流の歴史記述では零れ落ちてしまっていた過去の出来事を知り、現在起こっている社会運動と結びつけるきっかけになります。このような郷土史館は桃園市復興区だけでなく、台湾各地に存在し、これからも増えていくのではないでしょうか。
終わりに
桃園市復興区を初めて訪れるきっかけは、自転車旅行にハマる中、グーグルマップで次の目的地を探していた時に、石門水庫が家から片道3時間弱で行けることを発見したことでした。
一度訪れたら復興区の美しい風景に魅せられ、繰り返し訪れるうちに当地のことをもっと知りたくなりました。すると次々に興味深い歴史があることに気づき今に至ります。
今回の記事で紹介できたのは復興区でも入り口に当たる部分。台7線の先にはまだまだ知らない世界が広がっています。
できれば宜蘭とつながる台7線も自転車で走破したい…という目標もあります。
今回の記事で伝えたいことは…
復興区はいいぞ。
桃園観光はこちらもおすすめ
桃園観光についてはTwitterで「#桃園田野筆記」にまとめています。
下の方におまけがあります↓↓↓
参考書籍
- 陳謙、林誠榮、凌明玉(2003)戀戀角板山。紅樹林
- 傅琪貽(2019)1900‐1907 大豹社事件。原住民族委員會
- 林茂成、范燕秋、瓦歷斯‧諾幹(2005)泰雅先知 樂信・瓦旦。桃園縣政府文化局
- 高俊宏(2020)拉流斗霸:尋找大豹社事件隘勇線與餘族。遠足文化
参考記事
- 大豹群故事館開幕,保存泰雅族「大豹社事件」歷史記憶和族群資產
- 泰雅族的英雄史詩,樂信瓦旦不可思議的一生。
- 2021Openbook好書獎.年度中文創作》拉流斗霸:尋找大豹社事件隘勇線與餘族
- 復興溫泉藍憂破壞環境 綠讚助當地觀光 桃園議會激烈攻防
- 羅浮溫泉湯池正式啟用 打造溫泉產業成為復興旅遊亮點
- 桃園市樂信·瓦旦紀念公園落成 樹立轉型正義里程碑
- 鄭文燦:還我土地是原民轉型正義基礎
- 「促轉會社會對話展」桃園開展 鄭文燦:讓歷史微光被看見
- 石門水庫興建遷移卡拉社部落 鄭文燦:會還給族人公道
- 蔡・総統:移行期の正義で歴史の真相究明
- 移行期正義
当ブログ内の関連記事
【おまけ】自転車で台北から復興区へ
これまで自転車で訪れた復興区のその他のスポットを紹介します。
台北から桃園市の復興区へ行く場合、新北市の三峡を通過し桃園市に入ります。ルートは平坦が続く道路から山越えのルートまでいくつかあり、私は気分によって使い分けています。
新北市の三峡から北113線を登る、頂上まで残り1km地点を示すサイン |
風景が特に良くてお気に入りなのは新北市の110線の途中から北109線の峠を越え、大豹渓まで下りたら今度は北113線をまた登っていくルート。
北113線の頂上までラスト1km…!というところにこんなサインがあるんです。
北113線の頂上、桃119線の下りに入る地点『東眼山原住民市集チェックポイント』 |
北113線の頂上にはちょっとした竹製の建物や、復興区のモニュメントがあります。遠くに三峡区の街並みを見下ろすこともできます。
志継部落から優霞雲部落へ抜ける道 |
北113線から桃119線へ進み、ダウンヒルを楽しむ道中で寄り道した志継部落。タイヤル族はキリスト教徒・カトリック信者が多く、各部落にはそれぞれ異なる個性的なデザインの教会が建っています。
志継部落から坂を下る |
名もない道路は坂道が急で、路面もがたついている…。
鐵木瀑布 |
復興区にはキャンプ場やBBQ場も多く、美しい山と渓流の景観に囲まれています。
霞雲生態池 |
グーグルマップで見つけて、水の色がきれいで気になった霞雲生態池。規模は小さくひっそりとした池でしたが、期待通りの美しさで満足。
【さらにおまけ】烏來のタイヤル族との関係
角板山のタイヤル族と新北市の烏來のタイヤル族とはどんな関係なのか?
かつては福巴越嶺古道という山道を往来し、両地域のタイヤル族の通婚もあったようです。
現在の公道基準で考えると両地域は結構離れているように見えますが、烏來よりもっと先にある福山部落と桃園市の拉拉山は隣り合っているので、山道さえ通ることができれば遠くないようです。
福山部落は遠い昔に行ったことがあります。また行きたいな。
烏来からさらに山奥の福山部落に来ている pic.twitter.com/m4yIKU7R0M
— amikawa (@amikawa125) June 2, 2018
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