ケタガラン族の遺跡を巡る①(貢寮編)



台湾に漢人が移住するより前から先住していたケタガラン族というグループがいます。文化の多くが早くに漢化したため、16の原住民族にはカウントされていないのですが、今でも彼らの居住地にはケタガランの歴史の痕跡が残っていました。今回は台湾東北部の貢寮へ、ケタガラン族の遺跡を探しに行った時のお話です。


ケタガラン族の遺跡を巡る①(貢寮編)






ケタガラン族の起源の地、貢寮へ

静かに流れる雙溪河

台北から自転車で東へ4時間、新北市の貢寮區。東北海岸に注ぎこむ雙溪の下流に位置するこの辺りは、ケタガラン族(凱達格蘭族)の暮らす地域でした。ケタガラン族は平地に住み漢化した平埔族で、台湾の中央政府が認定する16の原住民族にはカウントされていません。

現在でもケタガラン族というアイデンティティーを持つ人々は存在するのか?そんな疑問があり、彼らの起源であるとされる貢寮へやってきました。

貢寮老街の入り口

貢寮の歴史解説

貢寮は現在では國語で「gòng liáo」とも呼ばれていますが、かつては摃仔寮(台湾語:Không-á-liâu)という地名でした。この「Không-á」というのが、ケタガラン族が山で狩りをする際に仕掛ける罠「KONA」からきており、漢人が移住してくる前から先住するグループがいたことを物語っています。


平埔族の公廨から媽祖廟へ:新社慈仁宮

新社慈仁宮

最初に向かったのが「ケタガラン族と漢人が一緒に建てた」と言われている媽祖廟「新社慈仁宮」(map)。もともとこの場所には平埔族の祖先を祀る公廨があったのですが、清朝道光年間に現地住民の潘古祿という女性が浜辺で媽祖像を拾い、祀るようになったのが端緒とされています。

新社慈仁宮

貢寮や東北海岸一帯の沿革

慈仁宮の所在地は、清代の頃には三貂社というケタガラン族の集落があり、日本統治時代には新社と呼ばれていました。民国以降は雙玉村と改名しています。

慈仁宮の沿革

媽祖を祀っており、一見すると普通の漢人の廟

慈仁宮の扁額

一見すると一般的な媽祖廟に見えるため、ケタガラン族の要素は見られないように思うのですが、扁額や柱に彫られた文字などに「番」の文字があり、漢人以外のエスニックグループが関わっていたことを発見できました。

「紳耆民番暨信士等敬立」の文字。漢人と原住民族(番)が建てたことがわかる

「光緒戊寅冬吉旦」の文字(光緒四年 1878年)

咸豐・光緒年間に慈仁宮の建物は改築され、民國時期に現在の位置に移転しています。建物の改築には当初の頃からの建材も再利用されているようで、石柱に「光緒戊寅冬吉旦」の文字が見られたり、清朝の頃の地名「三貂社」の文字や、ケタガラン族の頭目と思われる「潘國殷」の名前も残っていました。

「三貂社屯目潘國殷合屯丁廿一名全叩」の文字

慈仁宮の虎爺と媽祖


凱達格蘭(巴賽)/ 紳耆(新社)遺址 / 三貂社祭祀公業立

慈仁宮から、はす向かいにあるケタガラン族の祠「山西祠」へ向かう道中にもケタガラン族と三貂社の文字がありました。

聯合國台灣原住民族資訊中心/三貂社祭記公業議事機構


#かわいいですね

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ケタガラン族の祖先を祀る:山西祠

新社山西祠

続いて向かったのは、慈仁宮から徒歩ですぐの所にある「新社山西祠」(map)。

平埔族であるケタガラン族の文化の多くは消失してしまっていますが、一部の族人によって文化復興と遺跡保存の試みが続いています。その一つがケタガラン族の支族であると考えられているグループ「バサイ族(巴賽/馬賽/Basay)」の15代頭目潘金山たちによって19世紀末に建てられた、先祖を祀る「新社山西祠」です。

巴賽祖師廟

清代の頃によく作られた石積みの建物の内部が改修され、ケタガラン族の文化を伝える場所になっています。内部でまず目を引くのは「山西祠」の石碑です。「山西」というのは中国の山西省のことではなく、ケタガラン族の伝説にある祖先の出身地「Sanasai」を音訳したもの。

山西祠内部

石碑の周りにはエキゾチックな衣装を身に纏った人々が描かれています。台湾の原住民族は文字を持たなかったので、歴史的な記録は外来者の残したものを参考にしています。ここで壁に描かれているイラストの元ネタは清朝が台湾原住民族を描いた「蕃俗六考」「職貢圖」「蕃社采風圖」などでしょうか。

外来政権の調査の際に描かれた原住民族のイラストで装飾されている

清代の文献『職貢圖』(右)

オランダ等の文献に描かれた台湾原住民族のイラスト

タッチの異なるこちらのイラストはオランダ等の西洋勢力が台湾原住民族の風俗を描いたものだと思います。

さらに壁には核四(原子力発電所)開発に伴い行われた発掘調査の写真が掲示されていました。この発掘でケタガラン族と関連があると思われる鉄器時代の遺物などが出土しています。また、この原子力発電所開発に反対する活動に連動して、ケタガラン族のアイデンディティーの復興、正名運動も活発になったという背景があります。

山西祠外観

清代の頃によく作られた石積み建築

「社女潘招治子林勝義修建」の文字



ケタガラン族とはどのような人々なのか?

職貢圖(故宮博物院展示)

ケタガラン族は17世紀にスペイン人や福建省から漳州人が入墾してくるより前から台湾北部に先住していたグループです。分布範囲は広く、東北海岸から台北盆地、西へは桃園の林口などにも集落がありました。ケタガラン族は言語によってバサイ(巴賽)やルイラン(雷朗)のサブグループに分かれるとされます。

臺灣圖附澎湖群島圖(故宮博物院展示)から見るケタガラン族の集落分布

今回訪れた貢寮一帯は特にバサイ族が古くから活動するエリアで、航海能力や言語能力に長けていた彼らは対外的な商売で生計を立てていました。

スペイン人が1626年に台湾最東端の三貂角(Santiago)から上陸し和平島に拠点「San Salvador 聖薩瓦多城」や「西班牙諸聖教堂」(map)を築いた頃に、バサイ族は通訳となって活躍したという話もあります。

スペイン人が上陸した岬はSantiagoと名付けられ、それが現地に暮らすケタガラン族(バサイ)の集落名に反映され「三貂社」となりました。スペイン人上陸以前はケタガラン族が狩猟を行う荒野で、元々は「kivanowan」と呼ばれていたようです。

17世紀にスペイン人が和平島に築いた修道院の発掘現場


清代になると福建漳州人が移住し開墾を始めたため、三貂社のケタガラン族はもともと暮らしていた海に近い舊社を追われ、今の慈仁宮がある辺りの新社へ後退しました。



鉄器時代の十三行文化との繋がり

新北市八里の十三行博物館

さらに時を遡ると、先史時代の鉄器時代にあたる十三行文化とケタガラン族の文化的な繋がりが指摘されています。

十三行博物館の常設展

新北市八里にある考古学博物館の十三行博物館(map)に、台湾北部先史時代の人々の暮らしを物語る常設展があります。

十三行博物館の名前にもなった十三行遺址は今から1800〜1500年前の金属器時代に属する考古学文化を代表する遺跡です。十三行文化は台湾の北部海岸一帯に広く分布していました。

青色が十三行文化の分布範囲(十三行博物館常設展)

十三行博物館では十三行文化に属する人々に関わる遺物が展示されていますが、中でも外来品の瑪瑙ビーズや中国の古い通貨、外来の貿易陶磁などが目を引きます。1800〜1500年前といえば、台湾島にはまだ西洋人や漢人は大量に移住してきていない先史時代ですが、当時の原住民族が海を越えて貿易を行なっていたのか、対岸から商人がやってきて交易が行われていたのか、すでに台湾北部の人々は外来の製品に親しんでいたことがわかります。

外来品の瑪瑙ビーズ(常設展)

外来品の瑪瑙ビーズ(特別展「乘船而來」より)

福建省製の陶器。16〜17世紀(特別展「乘船而來」より)

台湾北西部の下罟坑遺址から出土した福建省製の陶器や染付磁器。このような華南地区で焼かれた磁器は台湾に移住した漢人だけでなく、原住民族の集落にも入ってきました。その際に交易を行なった人の一部がバサイ族だったと考えられています。

このような考古資料から、ケタガラン族の祖先が先史時代の台湾北部で重要な役割を果たしてきたことがわかります。

福建省漳州窯製の16世紀末〜17世紀早期の陶磁器(特別展「乘船而來」より)

この特別展の内容はオンラインでも見られます


終わりに

新社慈仁宮

ケタガラン族は台湾の中央政府が認定する16の原住民族にカウントされていないグループで、すでに文化の多くが漢化した平埔族のうちのひとつです。文化や言語が早くに漢化したため、現在ではケタガラン族の要素が目に見えにくくなっていますが、貢寮には古い廟に「番」や「三貂社」の文字が残っていたり、「山西祠」のようにケタガラン族の先祖を祀る祠が大切にされていることがわかりました。

また、90年代から起こった原住民族の正名運動にもケタガラン族の姿がありました。当ブログでは台南のシラヤ族の夜祭復興のお話を取り上げましたが、ケタガラン族も核四(原子力発電所)建設の反対運動と共に、自身のアイデンティティーを取り戻す活動が行われてきました。


臺灣圖附澎湖群島圖(台湾北部)

今回はケタガラン族の起源と言われる貢寮を訪れましたが、北投周辺にもケタガラン族に関連するスポットがあります。またの機会にそちらのお話も取り上げようと思います。

Twitterでは「#ケタガラン族の遺跡を巡る」に一連のツイートがあります。




参考記事

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