台湾の都市原住民族の集落でアミ族の「苦」を知る


ho hai yan〜♫

広場に響き渡る歌声、色とりどりの民族衣装をまとい輪になって踊る原住民族の人々。ここは台湾東部でしょうか?

実はここは桃園市。花蓮県に次ぐ原住民族人口を擁する桃園市で行われた、合同豊年際のワンシーンです。


今回の記事では台湾北部の都市に移住した原住民族の苦労の歴史と、現地での文化継承について紹介します。


台湾原住民族の約半数が都市部に暮らしている

台湾には16の原住民族がおり、彼らは主に花蓮や台東といった東部や、中央山脈に暮らしているというイメージが強いと思います。しかし実際には約半数が新北市や桃園市といった北部の都市に暮らしていることをご存じでしょうか?

原住民委員會の定義によると、「都市原住民」とは30個の伝統的な山地原住民鄉、および25個の平地原住民鄉(鎮、市)に住んでいない原住民を指すとされています。

直近の2026年3月の統計によると、原住民族が多く暮らしているのは花蓮県、桃園市、新北市となっています。

  • 原住民族人口(全体) 635,762人
  • 都市に住んでいる人口 335,161人
  • 都市に住んでいる割合 52.72%
    1. 花蓮縣 95,066(14.95%)
    2. 桃園市 91,368(14.37%)
    3. 新北市 65,610(10.32%)

参照:【2026年】3月原住民族人口數統計資料 原住民族委員會11503台閩縣市鄉鎮市區原住民族人口-都會比例.xls

彼らは1960年代頃から故郷を離れて北上し、都市やその近郊に定住しました。


炭鉱・漁業・建設業…1960年代から都市へ移住した原住民族



農業から工業へ、1960年代は経済構造が変化した時代でした。都市近郊で労働集約型の産業が発展し、多くの人手が必要とされたと同時に、仕事を求めた原住民族の人々が故郷を後にしました。

彼らが従事したのは炭鉱、漁業、建設業といった肉体労働でした。80年代には北部の炭鉱は最盛期を迎えており、多くの原住民族が労働者として参入したほか、海辺に暮らすアミ族にとって、漁は慣れ親しんだ仕事であったため、基隆で漁業に従事する人も多かったと言います。

そのため炭鉱のある新北市の瑞芳や土城附近、港に近い基隆の和平島一帯などに原住民族が集まり、都市原住民族や旅北原住民族と呼ばれるようになりました。




都市で奮闘したアミ族の歴史を記念する炭鉱跡の原住民族公園

土城區原住民族生態公園の集会所(海山煤礦舊址)

新北市土城区にある原住民族生態公園(map)は、かつて海山炭鉱(海山煤礦)があった場所に作られた公園です。

1960年代以降、海山炭鉱は労働者不足を補うべく、オーナーが花蓮や台東の部落を訪問し、原住民族の労働者を募集しました。こうして80年代には約500名の原住民族が炭鉱のある新北市土城に暮らすようになりました。

土城區原住民族生態公園の集会所(海山煤礦舊址)

1984年に炭坑で大事故が発生し、74名もの炭鉱夫が犠牲となりました。その多くはアミ族だったと言います。その後、海山炭鉱は1989年に採掘停止となり、ほどなく閉山しました。

海山煤礦舊址の解説板(土城區原住民族生態公園)

かつて炭鉱があった場所は2005年に原住民族生態公園に改装され、2023年に再整備されて現在に至ります。公園の入り口には花蓮や台東出身の原住民族が海山炭鉱で働いてきた歴史や、炭坑の事故で犠牲になったことを記す解説板が建てられており、都市原住民族の血と汗の歴史を記念する空間となっています。

土城區原住民族生態公園の物見櫓(海山煤礦舊址)

原住民族生態公園には、祭祀に使えるよう、伝統的な集会所や物見櫓(瞭望台 Pikacawan)が建てられ、祖霊も祀られています。

土城區原住民族生態公園の祖霊屋(海山煤礦舊址)

16の原住民族

1989年に海山炭鉱の採掘停止後、炭鉱で働いていた原住民族は新北市三渓や桃園市大渓などへ移動していきました。


川辺に築かれた新しい故郷

三渓と鶯歌を結ぶ三鶯大橋から大漢溪を望む

都市に出た原住民族たちは、都市の家賃の高さや故郷との環境の違いになじめず、1970年代頃から大漢渓や新店渓という川の近くに集まり、家を建てて暮らすようになりました。

三鶯大橋の下

大漢渓のそばに築かれた都市原住民族の集落は、新北市の三鶯部落、南靖部落、桃園市の崁津部落、撒烏瓦知部落などがあります。海山炭鉱で働いていた多くのアミ族も、川辺の部落に暮らしました。

新店渓には渓洲部落や小碧潭部落などが築かれ、主にアミ族が集まって暮らしていました。

彼らは川辺に住まいを築き、都市に出て建設現場や工場などで働いていました。

三鶯大橋の下に形成された南靖部落

彼らは廃材などを集めて川のほとりに木造の家を建て、故郷の伝統の暮らしを再現した部落を形成しました。

しかし川辺の土地は国有地であるため、これらの家は違法建築とみなされるばかりか、行水区であるため自然災害による危険もありました。さらには台北県政府(当時)は水岸の整備工事計画を発案し、1994年から96年にかけて三鶯部落の強制撤去が行われました。

三鶯大橋の下に形成された南靖部落

川辺の三鶯部落に住むアミ族たちは強制撤去に抵抗し、家が壊されても何度も同じ場所に家を再建し、ある時は台北のケタガラン大道に出てデモを行いました。こうした社会運動は次第に世間の関心を集めていきました。

隆恩埔國宅

2002年に台北県政府(当時)は川辺の部落に暮らす都市原住民族のための国民住宅(公営団地)を建てる「三峽隆恩埔段原住民短期安置所」計画を発表。2007年に10階建て150戸の隆恩埔國宅(map)が完成し、川辺の部落(三鶯、渓洲、青潭、小碧潭)の住民たちから入居者を募りました。

しかしコンクリートで区切られた高層アパートは原住民族の生活に合わず、従来の近所づきあいがしづらいため、部落のコミュニティー維持が困難だという課題がありました。三鶯部落の多くの住民は団地へ入居せず、元の川辺での暮らしを続けました。

2008年2月には三鶯部落の家屋が政府によってまたしても強制撤去され、同年11月には部落の住民たちによる三鶯部落自救会が発足されました。

団地方式では川辺の都市原住民族問題の完全な解決はできないと考えられ、2000年代後半は団地以外の方法を探る時期となりました。


違法建築から合法の新部落へ:三鶯部落と渓洲部落

新・三鶯部落

2008年の三鶯部落自救会発足から抗争が続き、8年後の2016年、部落とNPOは政府とようやく一つの方案にたどり着きました。

それは近くの別の土地に新しく部落を作り移転再建するという「三峽原住民族生活文化園區」計画で、再建に関わる費用は部落の住民、銀行ローン、政府補助でまかなうという「333モデル」(333模型)で行われることになりました。



新しく部落を作る土地は国有財産署との契約を経て、台北大学のそばに借りることになりました。これは川辺の元の部落から車で数分の距離にあり、契約期間は20年間。契約終了後はこの部落の人々が優先租借権を持つという内容でした。

新・三鶯部落(map)建設完了後は地上物の産権を部落の協会法人が持ち、そこから個人の名義で部落から借りることができる方式で、2016年の時点で園区には42戸、約200名が居住することになりました。

三鶯部落

実際に新しい三鶯部落を訪れてみると、一列また一列と平屋や二階建ての家屋が並び、日曜の夕暮れ時には家の前でバーベキューをしながら談笑するアミ族の方の姿が見られました。部落の中央には集会所と広場が設けられ、祭祀を行うことができるようになっています。

三鶯部落の集会所

Lipahak 三峽野菜園區 (三鶯部落)

アミ族は「草を食べる民族」と自称するほど野草の知識が豊富で、都市の部落でも様々な作物を栽培しています。三鶯部落にはLipahak 三峡野菜園区(map)と名付けられた菜園があります。

Lipahak 三峽野菜園區 (三鶯部落)

2020年頃から三鶯部落では外部からの参観を受け入れるようになっており、Lipahak 三峡野菜園区では年に数回、食育や農業に関するイベントが開催されています。

Lipahak 三峽野菜園區 (三鶯部落)

三鶯部落の上を高速道路が走る

前述の隆恩埔國宅(map)の隣では、2025年から新北市初の祭儀広場の建設工事が始まっています。この広場が完成すれば、大規模な合同豊年祭などの祭儀を行えるようになります。

隆恩埔國宅と、建設中の新北市原住民祭儀廣場

2026年5月に隆恩埔國宅前を通りがかった際に、木陰で食事とお酒を楽しむグループに声をかけられました。彼らはこの団地に住むアミ族で、毎週のように集まってこの場所で食事しているそうです。

隆恩埔國宅前で談笑するアミ族の方々

建設当初はコンクリートで分割された個室に戸惑いはあったのでしょうが、外で集まって食事をするという彼らの伝統の暮らしは続いているようです。

また、隆恩埔國宅にはアミ族だけでなく、パイワン族やタイヤル族といった他のエスニックグループも居住しています。これは故郷の部落では見られない光景でしょう。

隆恩埔國宅前で談笑するアミ族の方々



渓洲部落の向かいにそびえる小碧潭の高層マンション

新北市・新店の新店渓の東岸にあるMRT小碧潭駅一帯は高層マンションやIKEAなどが立ち並ぶ商業エリアとなっています。その対岸にあるのが都市原住民族(アミ族)の渓洲部落(map)です。

溪洲部落

1970年代頃から仕事を求めて花蓮や台東を後にしたアミ族は、故郷に似た川辺の環境を開拓し、家を建てて暮らしていました。渓洲部落も、元々は新店渓そばの別の場所に形成された都市原住民族の部落でしたが、三鶯部落と同じく居住権を巡って政府と争い、333モデルで部落を現在の場所に移転再建しました。

渓洲部落

渓洲部落の例も、2007年に台北県政府(当時)が「大碧潭再造計畫」という開発計画に伴い川辺の部落住民の退去を命じたことにより、居住問題が発生しました。しかし渓洲部落のアミ族も居住権を求めて抵抗しました。

三峡に隆恩埔國宅ができた2007年には、政府は渓洲部落の住民に対しても団地への引っ越しを求めていましたが、今の部落で暮らし続けたい住民はこれを拒否し、両者は対立状態にありました。

溪洲部落

二年後の2009年に、政府は溪洲アミ族生活文化園区計画を打ち立て、部落の人々と定住先についての議論を行い、「別の場所に新しい部落を作り、完成してから今の部落を取り壊す」という方向に定まりました。

同じ頃、三鶯部落では新たな場所に部落を再建する計画が動いていたのは前述の通りですが、2016年に三鶯部落が333モデルでの再建が決まった翌年の2017年に、渓洲部落でも333モデルで部落を再建することが決定しました。

溪洲部落の集会所

しかしそこからも長い年月がかかり、新・渓洲部落が完成し、住民が新居に引っ越したのは2021年8月になってからでした。

なぜ新しい部落の再建にこんなに時間がかかってしまったのでしょうか?それは333モデルで再建する場合は、団地に入るよりも経済的な負担が大きいことが重大な問題となっており、部落内で意見がまとまらなかった点が大きいということでした。さらには資材の値上がりや、政府負担は街灯や建物の基礎部分を含むのかといった認識の齟齬も重なり、渓洲部落の移転再建計画は難航しました。

ドキュメンタリー映画「退潮坐在岸邊」

渓洲部落については潘志偉監督による「Maro’ay to ko kerah 何處是我家」(2022)や、「退潮坐在岸邊 itini i lalekal a maro'」(2023)というドキュメンタリー映画が作られています。

溪洲部落

渓洲部落には、デザインのそろった二階建ての家屋が整列し、現在200名ほどのアミ族が暮らしています。同じアミ族とは言え彼らの出身は様々で、花蓮の寿豊や太巴塱などの異なる部落から集まっているそうです。

溪洲部落

個々の家屋には畑があり、彼らの好む野菜が栽培されているほか、やはりここでも家の前の空間でバーベキューをしている住民の姿を見かけました。屋外で共食するというのがアミ族の風習なのでしょう。

溪洲部落

部落には「溪洲農園Padatengan」という共同の畑も作られていました。九層塔(台湾バジル)やネギといった、私にもなじみのある作物から、名前を見ても分からない植物もありました。

溪洲農園 Padatengan

2023年には「溪州原住民文化園區」も完成し、観光客が訪れることのできる施設があります。

阿美族傳統家屋 loma(lona)

伝統家屋の向かいには白い建物があり、私が訪問した2026年5月には新しく「溪洲水泉的灶」というお店がオープンしたばかりで、その日は夜の7時頃からアミ族アーティストのコンサートが行われるところでした。

溪洲水泉的灶というお店

「溪洲水泉的灶」はアミ族をはじめとする原住民族の文化を発信するお店で、食事や物販だけでなく、文化イベントなどを開催するようです。

都市原住民族の歴史や文化についても学べる空間になることを期待しています。

溪洲水泉的灶

溪洲水泉的灶のメニュー

溪洲水泉的灶の店主Kacaw(王效忠)さん

コンサートは店主の弟さん(アミ族)とそのパートナーの方(平埔族)のデュオで、アミ族の歌を始め、パイワン族やタイヤル族の歌、そして台湾語(台語)の歌まで披露されました。

溪洲水泉的灶で行われたアミ族のコンサート

「苦」を味わう人々

アミ族の野菜料理

このコンサートの前にみんなで食事をするということで、突然訪問した私もありがたいことにご相伴にあずかることになりました。

アミ族の野菜料理

アミ族の食文化は、季節の野菜をふんだんに使うのが特徴です。中国語で野菜は「蔬菜」と言いますが、中国語で「野菜」と表現する場合は、より野生に近い状態の植物であるというニュアンスがあります。

この日食卓に並んだ料理は、鹹豬肉(塩漬けの豚肉)やタケノコ、シシトウ、ラッキョウなどを調理したおかずと、もち米の赤飯、グアバやバナナなどがありました。

その中でアミ族の方が「大好き」とおっしゃっていたのが「苦茄」というナス科の野菜でした。

苦茄(輪胎 kakurut)の和え物とラッキョウ

苦茄という名前の通り、少し苦みのあるナスのような野菜で、アミ族の言葉ではkakurutというようです。見た目がタイヤに似ているため、輪胎と呼ばれることもあるようです。

同席した渓洲部落のアミ族の方曰く、アミ族はいろいろな野菜を涼拌(和え物)にして食べるのを好むそうです。

桃園忠貞市場で販売されていた苦茄(2014)

苦茄はあまり一般的な市場で見かけることはありませんが、自分の過去の写真を漁っていたら、桃園市龍岡の忠貞市場で見かけたことがありました。

主食はもち米の赤飯だった

また、お話を聞かせてくださったアミ族の女性は都市に出てきた第一世代で、紡績工場で働いていたと教えてくださいました。男性は型板(建設関連)のお仕事をされていた方が多いようです。

受け継がれる身体の記憶

弓の手入れをする原住民族の男性(三鶯射箭場)

話はまた三峡に戻りますが、三鶯部落から三鶯大橋をくぐった先は川辺の運動場となっており、そこに三鶯射箭場(map)があります。そこでも都市原住民族の方にお話を伺うことができました。

粟(小米)を模したお守り(三鶯射箭場)

台湾の大きな川沿いはサイクリングロードや運動場が整備されていることが多く、新北市ではそういった公園に原住民族要素が見られることがあります。公園は豊年祭などの行事に使われたり、原住民族運動会の競技のための練習場として使われています。

原住民族にとって狩猟は主要な生業であったことからか、アーチェリー(射箭)は原住民族運動会の競技の一つになっています。



日曜日の夕方に三鶯射箭場を訪れると、弓の練習をしている人や、そばで談笑しているグループがいました。

三鶯射箭場

この日集まっていたのはアミ族、パイワン族、ルカイ族の方で、この付近に住んでいる同じアーチェリーグループの仲間だそうです。

特にたくさんお話を聞かせてくださったアミ族のお姉さんは花蓮から北部に出てきた第一世代で、子供は都市生まれなので新北に定住し、年に三回、春節と清明節、そして故郷の豊年祭の際は帰省するとのこと。

集まっていた方は工場やエアコンの取り付けといった、都市での肉体労働に従事しているとおっしゃっていました。

手作りの矢(三鶯射箭場)

彼らの使う弓矢は近くの山で材料を集めて手作りしているそうです。この日も細い竹を日光に晒しており、これから製作するところのようでした。

手作りの弓(三鶯射箭場)

弓の鍛錬をする都市原住民族(三鶯射箭場)

弓の鍛錬をする都市原住民族(三鶯射箭場)

原住民族の中ではアミ族が最も人口が多く、都市原住民族の部落もアミ族のものが多いのですが、このアーチェリー場ではパイワン族とルカイ族の方が一緒に練習しているのが印象的でした。

お話を聞かせてくださったアミ族の女性は、「わざわざ花蓮や台東の部落をひとつひとつ巡らなくても、ここならいろんなエスニックグループの人がいて、それぞれ頭目もいるから、原住民族の文化を知りたいならここで話を聞いたらいいんだよ」とおっしゃいました。

他のエスニックグループと一緒に暮らすというのは、都市で行われる豊年祭などのイベントにも表れます。


異なるエスニックグループが合同で行う都市の豊年祭

2022 龍潭區豐年祭(桃園)

新北市、桃園市、基隆市といった北部の都市では、原住民族の伝統のお祭りも継承されています。

花蓮に次いで第二の原住民族人口を擁する桃園市には、16すべての原住民族が居住しており、毎年6月から8月頃には各地で豊年祭が行われます。

桃園市や新北市などではエスニックグループの区別なく行う区ごとに行う豊年祭と、市に住む特定のエスニックグループを対象としたお祭り、そして規模の大きな合同豊年祭が行われます。

2022 龍潭區豐年祭(桃園)

お祭りの前半は神聖な祈祷や儀式を執り行い、後半はレクリエーションや伝統の踊りなどが行われる構成で、合間にはそれぞれのテントでお酒を飲んで盛り上がります。

2024 布農族 射耳祭(桃園)

これは2024年に行われた桃園の各区に住むブヌン族が集まって行われる祭祀・射耳祭の様子です。原郷の射耳祭はより厳格で、女人禁制の儀式ですが、都市で行われる原住民族の祭祀イベントは観光要素もあり、原住民族の食べ物を売るブースなども並びました。

2024 布農族 射耳祭(桃園)




2024 布農族 射耳祭(桃園)

故郷を離れて都市に暮らす原住民族の方々にとっては、自らのアイデンティティーを強固にし、文化を継承する場として、毎年の祭祀は重視されています。

2024 布農族 射耳祭(桃園)

2024 布農族 射耳祭(桃園)


正濱漁港彩色街屋(基隆)

北部の港町・基隆では、1960年代から花蓮や台東の原住民族が移住し、主に漁業に従事していました。そのため港に近い和平島近隣に原住民族(主にアミ族)の部落があるほか、原住民文化会館(map)も作られています。

2022 基隆市原住民族 假日市集(基隆市原住民文化會館)

その原住民会館前の広場でも、原住民族のマーケットと歌や踊りのショーが開催されることがあります。こういったイベントのほか、基隆でも6〜8月には豊年祭が開催されます。

2022 基隆市原住民族 假日市集(基隆市原住民文化會館)


2025 聯合豐年祭(桃園)

もっとも規模が大きく、観光要素も多分に含まれるのが合同豊年祭です。花蓮で行われる聯合豐年祭が原郷最大のお祭りだとすると、都市で行われる最大の原住民族イベントは桃園市で開催される「聯合豐年祭 ho hai yan」です。

2025年は、10月25〜26日にKIRI 國際原住民族文創園區(map)で行われました。

2025 聯合豐年祭(桃園)

合同豊年祭の最大の特徴は、桃園市じゅうから集まった異なるエスニックグループの人々が一堂に会するところでしょう。この多様性は三鶯射箭場で会ったアミ族の方も強調していた都市原住民族ならではの光景です。皆それぞれの民族衣装をまとって輪になって踊っています。

2025 聯合豐年祭(桃園)

2025 聯合豐年祭(桃園)

合同豊年祭では区対抗で伝統舞踊と応援団が競い合い、順位が決まります。優勝した区には賞金も出るため、どの区も気合が入っていました。

2025 聯合豐年祭(桃園)

観光客にとって楽しみなのは原住民族グルメではないでしょうか。原住民族の食べ物や飲み物、特にアルコール飲料のバリエーションが豊富なのも合同豊年祭の特色でした。原郷で作っているクラフトビールや、原住民族が好む飲料を合わせたカクテルなどが売られていました。

2025 聯合豐年祭(桃園)

台湾原住民族の文化に興味があっても、なかなか花蓮や台東などの原郷まで足を伸ばすのは難しい…という旅行者は、ぜひ北部の都市原住民族イベントを検討してみていただきたいです。


終わりに

2025 聯合豐年祭(桃園)

1960年代から始まった原住民族の都市への移住は、2026年には都市原住民族の割合が52.72%まで高まりました。今や半数以上の原住民族が故郷を離れ、都市で奮闘しています。その歴史は炭鉱の事故や差別、部落の強制撤去といった苦労が絶えませんでした。都市でマイノリティとなることによる教育格差や、伝統文化と言語の継承など、立ちはだかる課題が多いなか、近年になって333モデルで移転再建した三鶯部落と渓洲部落では、徐々にその特色を活かした文化観光の道が開かれ始めていることを、今回の訪問で感じることができました。

南靖部落



参考資料

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